技術者の誇りと情熱をモノづくりに賭ける
永島正嗣(エステック) 第2回「起業に燃えた技術者の誇り」
モノづくりのあるべき姿を学ぶ
県立松江工業高校機械科を卒業した永島。当時、父親が営む十数人の運送会社で働かないかという話があった。永島が選んだ進路は技術者の道。長男でありながら、跡取りを断っての決断である。
就職した会社は、大手の農業機械メーカー。稲刈り機やトラクターなど主に農業機械の設計を担当し、在籍期間は15年に及んだ。この間、5年ほど品質保証部に籍を置き、機械のクレーム処理を担当したことが、その後の永島にとって大きな財産となる。モノづくりのあるべき姿を体得したからだ。
「品質の大切さを知る良い勉強になりました。」
だからといって、永島がこの農業機械メーカーで働くことに満足していたわけではない。
「なぜ、私の価値がこんなに低いのか。給料日の度に不満に思っていました。」
永島には常々、「日本の技術者はほかの職業に比べて恵まれていない」という思いがあった。残業代にしてもそうだった。「技術者というのは、職場にいるときだけ仕事のことを考えているわけではありません。自宅にいても毎日が残業のようなものです。それにしては給料は一向に増えませんので、これではサービス残業と同じです。技術者の考える力や知恵が評価されるべきなのです。」
こうした長年の不満が募る中、「業績が悪化するとすぐ組織をいじりたがる」会社に嫌気が差して、ついに退社を決意する。直接の原因は、「売り上げが伸びないのは、売れない製品を作る技術者が悪いからだ」と、責任転嫁されたこと。もう1つの理由は永島自身、営業部門へ配置転換させられたことだった。
とはいえ退社した永島に、独立する気持ちは芽生えてこなかった。33歳という若さもある。それよりむしろ、経営や技術についてまだたくさん学ばなければならない非力な自分を知っていた。
再就職先に選んだのは、地元の機械修理会社。永島の機械設計に関する技術力の評判を聞いてのことだった。機械設計の責任者として再スタートが始まった。
3人の技術者
満を持して独立を決意したのは再就職から7年目。おりしも会社の業績が好転し始めた時期のことである。
「新しいものを作り出す技術者の夢を叶えるには、やはり独立しかない!」
独立する際、永島は社内の2人の技術者に誘いを掛け、永島を含めた技術者3人で新会社を設立した。
「私は機械設計の人間ですから、1人ではわずかな設計の収入しか期待できません。そこで部下だった電気設計と工場の責任者だった機械組み立ての技術者を引き連れて独立し、設計から製造までカバーできるようにしたわけです。」
2人を誘った理由について、永島はこう語る。
創業当時のこの考え方は今でもしっかりとエステックに根付いている。同社の社員フォーメーションは、15名が機械設計の技術者、同じく15名が現場で装置の組み立て作業に従事する布陣だ。
エステックの社名の由来は、「深く考えたわけではないのですが、エステックの『エス』にスモールからスペシャルへという願いを込めたつもりです。」
当時もいまも事業のベースは多様な装置ニーズに対応するモノづくり。ニッチな産業分野とはいえ、オリジナル製品をもつのが強みである。
しかしスペシャルを求める技術者の誇りは飽き足らない。いまなお経営の屋台骨を担う試料調製機を足掛かりに、従来の装置とは異なる装置の開発にチャレンジし始めた。「経営の第2の転機」(永島)となった世界初のたんぱく質の自動生成装置のことである。(敬称略)
掲載日:2007年5月21日