特殊シリンダー製造のトップメーカー
野村和史(南武) 第3回「製造現場に女性技能工」
小学校を7回転校
会社が閉鎖に追い込まれた本社工場の全焼という悲運にもめげず、2年後の1965年には株式会社南武鉄工として再発足。これを機に従来の下請から脱する思い切った経営戦略の転換を図る。この頃から一転して南武に新たな追い風が吹き始めるのである。金型に使われる傾斜ピンから南武が得意とする中子シリンダーへと需要の流れが変わり、同社を金型用中子抜きシリンダーの専門メーカーへと向かわせ、下請からメーカーへと転進する端緒となったのだ。
2代目社長の野村は、「戦時中と戦後の混乱の影響で、親父自身は戦争成金でしたから食うには困らなかったですが、私は疎開したり人に預けられたりして小学校を7回転校しました。戦後になってから父親が油圧シリンダーの仕事に辿り着くまでは何かと苦労が多かったですね」と当時を振り返る。
文科系出身の野村が抵抗なくモノづくり現場に馴染めたのには理由がある。
「学生時代から父親の運転手(ただしオートバイ)代わりとなって旋盤加工の現場、めっき屋、材料屋、ネジ屋に顔を出すうち、自然と知識が入ってきましたね。当時の会社は京浜工業地帯の中心部にありましたから、勉強する材料には事欠きませんでした」
モノづくりを学ぶにはまず現場を見ることの大切さを指摘する。
野村によると社名の南武の由来は、「前身の野村精機が戦時中から戦後にかけて、陸王の下請工場であった南部製作所にお世話になった縁で1955年、油圧シリンダーの会社を発足させる機会に社名を南武鉄工と名付けた」のがそもそもの始まり。その南武鉄工もバブル景気の余韻の残る1990年10月、「株式会社南武」に社名変更する。「社名の鉄工という言葉に3K(きつい、汚い、危険)職場のイメージがあるためか、若い人にとって魅力がないのです」と、社名の由来を説明する。
男女均等法の施行で発想転換
社のイメージアップを狙って社名変更したものの、人手不足解消にはいたらない。社長のなった野村にとって、最大の経営課題は人材の確保であった。妙案が浮かばない中、重大なヒントが飛び込んでくる。男女雇用機会均等法が施行されたのだ。「これだ!」と思った野村は早速、社内会議を招集する。もちろん、会議のテーマは人手不足対策だ。
会議が始まると開口一番、「なぜ現場に女性を採用しないのか。これからは女性が現場にいてもおかしくないのではないか」と提案。居並ぶ作業服姿の幹部たちは一様に複雑な表情を浮かべた。現場のベテラン技能工たちがどう思うか、現場に聞かなくても反対するのは分っていた。
東京・大田区の蒲田には伝統と格式を誇る蒲田女子高等学校がある。野村は幹部の不安をよそに蒲田女子高校からの募集を決断する。といっても相手のあること。面接に応じてくれたバスケット部出身の2人に対し野村はおそるおそる「現場に興味あるかい」と聞いてみた。答えは意外にハッキリしていた。「あります」だった。
南武に応募した2人の女子高生の目的は、単なる興味本位からではなかった。学校で学んだコンピュータ技術を現場で実践できることにあった。南武が導入している最新鋭の機械装置は、ほとんど例外なくコンピュータで制御されている。いわゆる現場の職人たちの腕の見せ所は削るものによってドリルを交換したり、加工プログラムに沿って鉄を削っていく技術などに限られている。裏を返せば、基礎となるコンピュータ技術を理解できなければ、南武の現場では使い物にならないわけである。
「今から10年前の現場ではコンピュータが理解できなくても勤まりました。ところがコンピュータの知識が必要な時代だというのに、最近、コンピュータのできる高卒男子がいなくなりましたね」と、野村はため息をつく。
南武の現場には現在、6人の「ドリルガール」と呼ばれる女子社員がモノづくりに励んでいる。だが、女性の活用という意味では同社の一職場のことに過ぎない。ほかの技術部門の職場を覗くと目を見張る場面が飛び込んでくる。(敬称略)
■ プロフィール
野村 和史(のむら かずし)
1938年12月、東京都大田区生まれ。
1961年4月、青山学院大学経済学部を卒業後、南武鉄工(現南武)入社。
1963年12月、本社工場の全焼に伴い退社し、17年間のサラリーマン生活を送った後、1984年に南武に再入社。
1995年6月、父で創業者の野村三郎の死去に伴い社長就任。
■ 会社概要
社名 |
株式会社南武 |
創業 |
1941年8月 |
設立 |
1965年12月 |
代表者 |
野村 和史 |
事業内容 |
特殊油圧シリンダーの製造・販売 |
資本金 |
58,000千円 |
従業員数 |
127名 |
本社 |
東京都大田区萩中3−14−20 |
掲載日:2007年8月20日