国研初のベンチャー企業
新藤勇(クリスタルシステム) 第2回「孤軍奮闘の研究生活」
無機材研へ転籍、大型単結晶合成法の研究に注力
学生の間で人気の高かった「石化ブーム」が一段落すると、産業界はにわかに「これからはニューセラミックの時代だ」と言い始めた。
「石化全盛の当時はセラミックなんか異端の学問でした。それが有機物だけでは材料として限界があるっことが分かってきたわけです。とくに光通信が次世代通信の主力として現実に登場してきたことで一躍、クリスタルは時代の寵児のようにもて囃されました。光はファイバーで送ることはできますが、これを増幅したりスイッチングを行ったりして通信を制御するには、クリスタルでないと不可能なんです」
「自動車のエンジンにしても、今よりも燃費効率の良い特性の高いものを作るとなると、金属とか今までの材料だけでは限界があります。どうしても新しいセラミックが必要になります」
1966年に各界からの強い要請があり、科学技術庁(現文部科学省)所属の無機材質研究所(現物質・材料研究機構)が新設された。当時の無機材質研究所はそれまでの組織の硬直化を防止する研究制度として、5年間、1つのテーマに集中的して研究したら、チームは解散して新たなテーマに再編成するという新しいシステムを導入していた。
各チームは製造する人、物性を調べる人、物性を考える人、合成方法を考える人など、それぞれの分野の専門家5〜7人程度で構成する体制になっていた。ところが高圧の水蒸気を使ってクリスタルを作る熱水合成法の研究は引き受け手がいない。誰もやりたがらない理由は他愛ないものだった。爆発する危険性のある高圧水蒸気の扱いを嫌ったこと。今1つは一つ一つの実験の結果が出るのに最低1ヶ月はかかる厄介なテーマのためである。
研究者らが早くデータが出揃う方法を採用したがるのは自然の流れだった。結局、研究所幹部は山梨大学で熱水合成法を手掛けていた進藤に声を掛けた。進藤は1970年、東京・駒込にあった無機材研に研究員として転籍した。
赴任した日から新しい熱水合成装置の導入作業を始めた。しかし、この方法ではクリスタルが合成されるのが随分先になってしまう。他の研究者たちのイライラは募るばかりだ。
「もっと早くクリスタルを合成してくれないか」との要請が相次ぐ。材料によっては別の合成方法を選択しなければならない。そうなると、さらに新たな合成装置導入作業も必要となりすでに行っている合成作業と同時並行で導入作業を進めなければならない。結晶ができはじめると品質評価装置も必要になってくるため、体がいくつあっても足りない毎日が続く。研究論文の作成どころか、毎年の予算申請に追われる生活を強いられる始末だった。
導入した装置には欠点や限界がある。進藤にはそれが我慢できず、より高いレベル、より高性能化を目指し装置の改造に熱中してしまう。
国家公務員の研究員は、数年経って必要な論文作成が終了すると、主任研究官に承認を受ける。予算申請などに明け暮れて論文作成が間に合わなかった進藤は、昇任が同期の研究者に大きく遅れを取ってしまっていた。
飛ぶ鳥を落とす勢いの研究実績
論文作成を後回しにしてまで進藤が心血を注いで築き上げてきたクリスタル合成システムと評価システムは、世界最高レベルをはるかに凌いでいた。普通の研究者が数年掛けても上げられそうにない成果を数ヶ月で得てしまう。30歳代後半の頃になると、研究仲間の間でも断トツの成果を残し始める。「予算3羽ガラス」「ノンポリラジカル」などと呼ばれるほど、研究者として注目される存在となった。飛ぶ鳥を落とす勢いだった。今から25年ほど前の頃のことだ。
当時の世相は、宇宙開発が人々の関心を集め、進藤も日本の毛利衛初代宇宙飛行士(現日本科学未来館館長)が搭乗したNASAのスペースシャトル「エンデバー号」で遂行した宇宙での材料実験の提案者として参画したりと、研究者として華々しい実績を積み上げ、クリスタルの第一人者として不動の地位を築いていく。
「国から毎年、予算1億円程度のプロジェクトが下りてくるので、予算を消化するだけで大変でした。よく国が補助金を出してくれないから研究ができないと嘆く声を聞きますが、私の経験ではそんなことはありません。日本では研究テーマさえ良ければ予算は付きます」
順風満帆に見えたそんなある日、研究者としても絶頂期にあった進藤の身の回りに、一大転機ともなる変化が迫る。(敬称略)
掲載日:2007年1月15日