本田技研工業創業者

本田宗一郎と藤沢武夫(本田技研工業) 第10回 二人揃って退く

著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良

残された課題は、出処進退の"退"である。

優秀な経営者であればあるほど、この"退"の決断をあやまるケースが企業には多い。トップに立つときは、周囲や先輩の推薦を得るわけだが、退くときは自らが決断しなければならない。

まだ早い、自分は生涯現役でいける。後進が育つまでは......と、居座る理由にはことかかないのが実際だ。

しかし、人は等しく老いる。精神力も最盛期をすぎれば翳りを見せるものだ。こればかりは、いかなる天才であろうとも例外はない。

藤沢はいう。

「世の中には、万物流転の法則がある。どんな富と権力も、必ず滅びるときが来る。この掟を避けて通ることができるか」

「万物流転が私につきまとって離れず、すきあらば私に飛びかかろうとする。(中略)

万物流転が勝つか、それとも私が勝つかが決定的な問題なのだ。創業者の、そして生産者の宿命対決だ」

昭和31年、"ホンダ"の社是が定められた。

「わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉価な製品を生産する」

と同時に運営方針も明らかにされている。

一、常に夢と若さを保つこと
二、理論とアイデアと時間を尊重すること
三、仕事を愛し職場を明るくすること
四、調和のとれた仕事の流れを作り上げること
五、不断の研究を忘れないこと

昭和44年、排気ガス規制をめぐる世論の中、"ホンダ"は空冷エンジンを搭載していた。ところが若手の研究者たちは、水冷でなければ規制をパスできないと主張。本田にこのことを進言したが、彼はこれまでの成功体験に立って若手の申し出を門前払いにした。

研究者たちは、藤沢にこの一件を訴えた。 冷静に両者の理論と実際をきいた藤沢は、やがて本田に直言する。

「あなたは、本田技研の社長としての道をとるのか、それとも技術者としての道を選ぶのか。どちらかを選ぶべきではないでしょうか」

しばらく沈黙したあと、本田は答えた。

「やはりおれは社長としているべきだろうね」

——水冷に、技術は変換となった。こうして世界を震撼させる低公害エンジンが開発されたのである。
 あるいはこのとき、本田の社長としての使命は、ほぼおわっていたのかもしれない。 かつて"1日24時間のうち、あの二人は20時間は話し合っていた"、との伝説をもつ本田と藤沢の間に、不仲説が流れはじめる。
そして——、

昭和48年、藤沢さんは役員室へ来て、

「私は退くつもりだ。そのことを本田さんに伝えてほしい」

といわれた。私(西田通弘)が使番になった。

「藤沢さんが辞めるそうです」

私が伝えると、本田さんは即座に口を開いた。

「それなら、俺もやめる」

あざやかなものだった。二人の呼吸には、最期まで乱れがなかったのである。

本田宗一郎と藤沢武夫のイラスト

一説に、藤沢がむりやり嫌がる本田をやめさせた、との憶測もあったが、いずれにせよ二人は社長と副社長の地位を去り、本田は会長になることなく、二人揃って取締役最高顧問になった(昭和58年には、二人揃って取締役を辞任。終身最高顧問となる)。

昭和63年(1988)12月30日、藤沢武夫はこの世を去り、本田はその葬儀にいつになく緊張したおももちで出席し、自身は平成3年(1991)8月5日、84歳で他界した。

日本企業史上に燦然と輝く、二人の名経営者は、その死後も何かにつけ語り継がれている。

(了)

掲載日:2006年4月26日