国研初のベンチャー企業
新藤勇(クリスタルシステム) 第3回「挫折した国研発第1号ベンチャー企業」
41歳で退官、独立へ
「いよいよ日本にも国家公務員のベンチャー企業誕生」
こんな見出しの記事が新聞や週刊誌の紙面を賑わした。特集記事まで登場するほどの派手な扱いだった。進藤が41歳で無機材研を退官し、国立研究機関としては初のベンチャー企業を設立した時のことである。
1963年、日本政府は「産業立国」を目指す日本の学術研究のメッカとして、筑波山の麓に新しい学園都市を建設することを閣議決定した。点在していた国立研究所や大学を集めて研究行政の高度化、効率化を図ると同時に、次世代のハイテク企業創出地として、大規模な研究学園都市の建設を開始したのである。
国立研究所の集積地の周りに民間の研究所団地を設け、両者が相まって新しいベンチャー企業を創出するのが狙いだ。その推進母体として「科学技術庁(現文部科学省)研究交流センター」が新設され、行政面からも研究所の垣根を越えた新しい研究体制や、ベンチャー企業設立をサポートする体制が整えられた。
初代センター長からベンチャー企業設立を進められた進藤は、ついに決断する。 進藤が研究所を辞めた理由の1つは、研究公務員として心血を注いだ新しいクリスタル合成システムが完成した達成感から、研究者としてのモチベーションが落ちてきたこと。今1つは米国の産学連携の現実を目の当たりにした海外渡航組の友人から、「なぜ、独立して研究成果を事業化しないのか」と、盛んに薦められたことが刺激となった。
失意のうちに小淵沢へUターン
だが、設立した会社は、ベンチャー企業とは名ばかり。ようやく国家公務員の枠から離れ、一国一城の主になったとはいえ、進藤が描くベンチャー企業像とは似て非なる中身だったのである。
ベンチャー企業といっても、資本金5千万円のうち90%はある大手企業が株主。進藤の持株はわずか6%に過ぎない。会社がスタートした当初から大手企業の子会社としての位置付けなのである。
今はベンチャー企業にとって、ベンチャーキャピタル(VC)が資金調達の有力な手段として知られている。しかし、当時はVCこそあったがほとんど機能していない。「リスクを避けて投融資する銀行と機能的には大差がなかった」のである。
進藤がこんな会社の経営実態と外部環境の中で苦労を重ねたのも、想像に難くない。この会社で8年間近く踏ん張り続けてきた進藤だったが、大企業の企業内ベンチャー故(ゆえ)の破綻に見舞われる。
進藤は多額の負債を抱えながら失意のうちに故郷の小淵沢にUターンした。 父親から相続した土地には友人や弟達が設立した会社があった。しかし、この会社も破産状態。土地は銀行の担保物権として差し押さえられており、他に資産を持たない身分ではどうにも再起を図りようがないと思われた。
最早、万事休すと思われた進藤を救ったのは、地域振興に取り組む故郷と長年培ってきた技術力だった。(敬称略)
掲載日:2007年1月22日