農工連携の先駆者!
宮原隆和(エルム) 第3回「多次元の事業戦略」
市場調査の失敗に学ぶ
宮原が大きな経営決断した1つに、92年に大阪中小企業投資育成とベンチャーキャピタルの鹿児島キャピタル両者に資本参加を仰ぎ、資本金を4875万円に増資したことがあげられる。これはエルムの非同族会社化を意味した。弟の照昌との二人三脚で経営してきた宮原にとってはたいへんな決断だった。
宮原はエルムの事業承継の行方についてこう語っている。
「エルムを宮原一族に引き継ぐことがベストだとは考えていません。エルムの社長には新しいものを生み出す力が必要だからです。恐らく社内の優秀な人材が継承することになると思います」
今ひとつの決断は、事業戦略を大幅に見直すことだった。具体的には事業分野を1次から3次までを網羅した「多次元の事業戦略」を掲げたことである。そして、宮原が本格的な事業化に乗り出したのは、「3次元の仕事」と位置づけたゴルフ関連機器事業だった。
ゴルフ練習装置兼娯楽装置のことで、その名は「よせ太郎」。的に向かってゴルフボールを打つと4つのマイクで的に当たったボールの音を捉え、音がマイクに到達するまでの時間からボールが的に当った位置を検出し、飛んだ距離と方向を計算してテレビ画像に映像を映し出す優れものである。
「全国のテレビや新聞も大きく取り上げましたし、最大手のスポーツ用品メーカーや航空機内の販売会社も口座を開設してくれたほど、注目を集めました」
ところが、いざ蓋を開けてみると、わずか2,000台しか売れなかったのである。失敗の原因はどこにあったのか。
宮原は当時を振り返ってこう話す。
「結論を言いますと、市場調査の何たるかをよく分かっていなかったためです」
宮原の話をかいつまんで代弁すると、販売目標と価格戦略の読み違いに失敗の原因があったようだ。
当時の日本のゴルフ人口は約1,300万人であった。市場調査の結果、このうちの7割近くの人が製品購入に肯定的と分析した。仮に1,000万人のゴルファーのうち0.1%の人が買ってくれるとして、宮原は1万台から2万台は売れると判断した。そこでつけた値段は高級なドライバー1本分に相当する5万6,000円だった。
宮原が後悔しても後の祭りだった。「最初から2,000台から5,000台を販売ターゲットにしていれば、まったく違った形態になっていたと思います」と、市場調査に基づく販売目標と価格設定の難しさを反省点として指摘する。
3年間の足踏み
宮原は決して開発に没頭していたわけではなかった。人づてに経営者としての宮原の力量を評価する向きも多かった。宮原にこんな話が舞い込んだのである。
県が誘致した大企業の鹿児島進出に際し、「工場の責任者になって欲しい」との依頼だった。肩書きは常務取締役。エルムの社長兼任でということだったので、宮原もその気になった。
だが、兼任とはいえ実際には責任者としての工場業務が連日続いた。そうした日々が3年間も続いたのである。
「非常にいい勉強をさせていただきました」と宮原は感謝するが、毎年のように新製品を生み出してきた宮原にとって、この空白の3年間は事業家として大きな足踏みになったことは否めない。
しかし、立ち直るのも早かった。国際的な大ヒット製品となった世界初の「全自動湿式光ディスク修復装置」の開発に成功。実に23カ国に輸出、5年間で会社の売上を倍増させる実績を上げたのである。(敬称略)
掲載日:2007年4月23日