本田技研工業創業者

本田宗一郎と藤沢武夫(本田技研工業) 第1回 アプレな男(1)

著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良

「オレ、カーッとなって、やっただよ。もう、あの銀行からの融資は駄目だろうなぁ」

ダットサンを自ら運転して、浜松から一気に東京に姿をあらわした本田宗一郎は、興奮しながら、まっ青な顔色に、丸出しの静岡弁で、すがるような目を専務の藤沢武夫にむけた。昭和26年(1951)の、ある日の出来事であった。

この日、本田は自らが社長をつとめる「本田技研工業」(昭和23年設立)の、東京進出についての具体的な構想をもって、これまで取り引きのあった浜松の地元銀行を訪ねた。資金的援助を期待してのことである。

ところが、応対に出た審査部長は、東京進出に多大な夢や期待を、胸一杯にふくらませている本田に対して、剣もほろろの発言を口にした。

「東京進出なんて、あなた、会社を潰す気か」

口調は親しみを込めたとはいえ、町工場の主にむけるものでしかなかった。

一つ一つ数字をあげながら、いかに「本田技研工業」が中途半端な会社かを解説し、彼は本田の無謀を食い止めようとした。

一面、無理もない。この会社は昭和21年9月に創業した「本田技術研究所」に端を発し、2年後に資本金100万円、従業員34名を数えて衣替えした新興の中小企業でしかなかった。

東京進出などという、大それたことは考えずに、地道に地元での業績を固めるべきだ、と部長はいいたかったのであろう

が、短気者の本田にはそうした忠告を聞く耳はなく、カーッとなって、あと先も考えずに、

「貴様にオレの何がわかるか」

とわめいたうえに、

「——二度とお前んとこには頼まん」

捨て台詞まで吐いて、その銀行を飛び出した。

くやしさに駆られてダットサンを運転していると、当然のごとくに後悔が胸に迫ってきた。地元銀行に見捨てられたら、これからの資金ぐりをどうすればいいのか、との恐怖心も湧いてくる。おそまきながら、彼は反省したといってよい。だが、すべては後の祭であった。

歴史的な背景を踏まえて考えてみれば、地元銀行の審査部長は正論を吐いていたことが知れる。

"ホンダ"が日本を代表する世界的企業に発展した今となっては、そのおりの銀行の応対こそが責められようが、こうした破天荒な展開をとげる以前、昭和26年頃の"ホンダ"は、騒音をまきちらす、"バタバタ"(あるいは"ポンポン")=バイク・モーター(自転車用補助エンジン)を生産する、数ある会社の1社——それも、アプレ社長に率いられた、いかがわしい工場としか、周囲には受け取られていなかった。この間の事情を、当の本田は次のように述べている。

どうして東京進出を考えたかというと、私みたいな男が浜松のようないなか町にいると、どうも周囲の雑音が多すぎて困る。赤いネクタイを締めて傍若無人に自動車やオートバイをぶっとばして夜中の一時二時に帰宅するものだから、近所から文句が出る。朝早くでかけて夜おそく酒に酔って帰ったりする私は全然なんとも感じないが、うちにいる女房がネをあげてしまった(さち夫人とは昭和八年に結婚、このとき本田は二十七歳)。

「本田さんのとこは、このごろ赤いネクタイを締めたり、毎晩おそく酒に酔って帰って来るようだけどだいじょうぶですか」と、いかにも私がうわ気でもしているかのようにウワサする。私は人にめいわくさえかけなければ、自分は自分だという考えだから、あたりの評判など気にせず動き回った。

だがいつまでもこんなところにいたのでは窒息してしまう。自分の持っている個性すら発揮できなくなり、新しいデザインの考案だってむずかしい、と気がついた。そこでもっと開放されるところに出なければと東京進出を図ったわけである。(本田宗一郎著『私の履歴書』)

(この項つづく)

掲載日:2006年2月22日