本田技研工業創業者
本田宗一郎と藤沢武夫(本田技研工業) 第4回 アプレな男(4)
著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良
手先の器用さと経験則、繰り返しの実験で努力したが、ピストンリングの製造は容易に上手くいかない。本田はここまで来てようやく、自分に鋳物の基礎知識が欠落していることに気がつく。
あわてて浜松高工業専門学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となり、専門知識の導入をはかったものの、彼は自分の知りたいことだけを学ぶというスタイルで、結局は学校の試験も受けず、退学させられてしまう。
その後、トヨタ自動車の下請けをつとめながら製品の精度をあげたが、太平洋戦争が勃発すると、本田の会社「東海精機」には、トヨタの資本が40パーセント入ることとなった。
終戦後、彼は「小姑のような」 "トヨタ"との共同経営を嫌い、自らの持ち株を"トヨタ"にすべて売り渡し、45万円の現金を得る。本田はこのお金をもとに、次なる展開を考えつつ、しばらくはブラブラした日々を送ったようだが、やがて戦争中、軍が使用していた通信機の小型エンジンを使って、自転車にそれを補助動力として取りつける"バタバタ"を製造。これで次なる飛躍の、チャンスをつかむことに成功する。
もっとも、自転車に補助エンジンを付けるとういアイデアは、本田のオリジナルではない。戦前からあった。戦前の日本にも、イギリスなどから"現物"が輸入されている。おそらく研究熱心な彼は、その存在を知っていたに相違ない。だが、知っていても形にできることとは直接に結びつかない。本田には何でも造れる器用な"手"があった。
彼は妻の協力も得て、改良をかさね、最初月産2,300台であったものを、ついには1000台までもっていくことに成功する。
栃木とか岡山などという遠方からも自転車屋さんやヤミ屋が買いに来た。事実、米の買い出しなどには最適で、私も女房の実家にはバイクを利用してちょいちょい行った。だが一方では「あんなもの、ヤミ屋の乗るものだ」とさんざん悪口も言われた。
(同上)
いつも思うことだが、"ホンダ"の技術者の真骨頂は、ごく普通の人の発想に、決して流れない点にあるのではないか。
たとえば、"バタバタ"——これが売れているというならば、もともと搭載した無線機のエンジンを復元すれば、同一の性能が出せるわけで、研究開発費はゼロ。もっとも労力は少なく、利益も確保できる。ふつうの人はそう考える。
しかし、"ホンダ"の技術者は、決して人マネをすることを潔しとはせず、プライドが許さない。これは本田宗一郎の遺伝子であろう。彼もエンジンの複製にがまんがならなかった。それは形をかえ、同じ造るなら、オートバイを作りたい、との考えにむかった。
エンジンの商品化第一号の「ホンダA型」—B型—C型ときて、ついに「ドリームD型」エンジンにいきついた。
真紅のボディーをつけたこのD型を載せて「ドリーム号」が完成したのが、昭和24年8月のことであった。冒頭の藤沢専務に泣きついた、2年前のことでもある。
「ドリーム号」は、好評で、順調に造るそばから売れていった。だが、しっかりとした販売網をもたなかった本田は、それまでに小さな自転車屋とかヤミ屋などを取り引き相手としてきたため、夜逃げされたり詐欺にあったり、散々な目にあって、肝心の代金の回収ができずに困惑してしまう。
このとき、本田の前に姿をあらわしたのが藤沢武夫であった。
もし、地元銀行と決裂したときと同様、この人物が"ホンダ"に参画していなければ、本田宗一郎は中小企業のおやじで生涯を終え、それも途中で運転資金に詰まって瓦解してしまった懼れがあった。 最初の"ホンダ"の危機を、藤沢はどう救い、次なる東京進出について、どのような妙手を編み出したのであろうか。
(この項つづく)
掲載日:2006年3月15日
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