Be a Great Small
東日本大震災乗り越え、マグネシウム合金加工の先駆者に「株式会社サンブライト」
2023年 10月 2日
上位機種のカメラのボディやレンズの部品は、マイクロメートルレベルの切削加工精度が要求される。しかも、形状は複雑で加工には高度な技能が不可欠だ。株式会社サンブライトは、マグネシウム合金の切削加工を強みに、カメラやプロジェクターなどの光学部品の生産で国内トップレベルの実績を誇る。取引先のカメラメーカーから厚い信頼を得ている同社だが、そこに至る過程には、大きな苦難があった。
本社工場が立ち入り制限
「だめだ。とにかく帰ってきてくれ」。2011年3月11日、渡邉忍社長(当時は専務)は、中国工場立ち上げのため、中国山東省にいた。取引先からのメールで東北地方を大地震が襲ったことを知り、あわてて父である代表取締役(当時。現取締役会長)に電話をかけた。返ってきた言葉は、予想を上回る深刻なものだった。
急遽帰国し、本社工場がある福島県双葉郡大熊町にやっとの思いでたどり着いた。工場は部品が散乱し、建屋にも損傷が目立つ。ただ、高台にあったため、津波の被害は免れた。ところが、ほどなくして自治体から「福島第一原発で事故です。すぐに避難を」との呼びかけがあり、何も事情が分からないまま、自治体が手配したバスに乗り、各地に設置された臨時の避難所に連れてこられた。当時102人いた従業員はてんでんばらばらの避難を余儀なくされ、全員の安否を確認するのに1か月かかったという。
「再建はむずかしいな」。渡邉社長は心の中でそう思っていたが、連絡がとれた役員や社員は「何とか復興させましょう」と口々に言ってくれた。「やるしかない」そう決意してから奔走の日々が始まった。知人のつてを頼って居ぬきの工場を借りるなどして、5月の連休明けに操業を再開させた。大熊町は立ち入りが制限されていたが、事業継続に必要なら特別に認められた。ただ、本来なら重量のある装置は専門業者に頼むのだが、だれも引き受けてくれない。自分たちでトラックを用意し、持ち出すしかなかった。限られた時間で仕掛品や部品、生産設備、書類をできるかぎり運び出した。
取引先が異例の要請
生産を再開する支えとなったのが取引先からの言葉だった。震災発生から1週間後、渡邉社長は最大の取引先だった大手カメラメーカーの調達担当者から呼び出された。会議室には、サンブライトが受注している部品の設計図と、同社にとって競合相手である金属加工会社が集められていた。「サンブライトが困っている。みんなで助けてやってほしい」。カメラメーカーの調達担当者は、ライバルメーカーに同社が受託する部品の代替生産を要請した。しかも製造した部品はサンブライトに納品し、サンブライトがカメラメーカーに納めることにし、取引の継続を確保してくれた。サンブライトが生産を再開すると、取引は震災前のかたちに戻してくれた。渡邉社長は「呼び出された時は取引停止を覚悟していただけに、本当にありがたいと思った。これで事業再開に踏み切れた」と当時を振り返る。
新工場建設へ
居ぬきの工場での生産と同時に、新工場建設の候補地探しにも奔走した。浜通り、中通りと福島中を探し回り、ある時会津若松市内で「会津若松市河東工業団地予定地」という看板を見かけた。市の担当者と電話番号が書いてあったので、さっそく電話をかけ担当者に面会を申し込んだ。会津若松市はその当時、多数の被災者や原発事故の避難民を抱え、大わらわの状態で、とても工業団地の話などできる状況ではなかった。ただ、担当者は「あなたたちも大変なのでしょう。生産再開ができるように協力しましょう」と言ってくれ、5月の連休明けに立地協定を結び、工業団地の造成と並行して工場建設に着手できるように配慮してくれた。同社が新工場の操業にこぎつけたのは、震災の年の12月。異例ともいえる速さだった。「従業員、取引先、会津若松市などたくさんの方々に助けられてきた。それだけに、会社を再建させるだけでなく、成長したところを見せなくてはという思いが湧き上がってきた」と、新生サンブライトとしてのスタートを誓った。
新工場建設に要した資金は、中国工場のために確保していた資金を投じた。生産再開が急ピッチ過ぎて、復興関連の補助金は間に合わなかったためだ。ただ、その後の追加投資には、国や自治体の補助金をフル活用することができた。設備は整っても、人員確保には頭を悩ませた。震災前にいた102人のうち、50人が戻ってきてくれたが、さまざまな事情で退職者が相次いだ。新規採用で何とか仕事は続けていたが、技能者不足は深刻で、歩留まりの悪化に直面していた。同時に経営体質そのものを強化する必要があることも痛感していた。
専門家継続派遣で経営力強化
同社は、中小機構の復興支援アドバイザー事業、専門家継続派遣事業に応募し、経営改善に乗り出した。派遣されたのは、元ホンダ系部品メーカーの経営幹部。渡邉社長は管理会計を導入し、管理職が経営を考えられるように組織再建を依頼した。中小企業にありがちな、意思決定はすべて社長が担うという体制から、組織的な経営へと脱皮させようとした。QC活動などを通じて、社員が自ら考えて動く仕組みへと意識改革に取り組んだ。
「とにかく熱い方で、社員をやる気にさせてくれた。おかげでそれまでは『どうしましょうか』と聞きに来た社員が、今では『あれ、やっておきました』と報告してくれるようになった」と社員の成長を実感している。
生産技術では、トヨタ自動車が東北復興支援策の一環として始めた、ものづくり相互研鑽プロジェクトに手をあげた。トヨタの生産技術部門の社員が同社の工場に入り、一緒になって歩留まり改善に取り組んだ。「自分たちよりももっと真剣に、どうしたらもっといいものを作れるかを考えてくれる姿勢は、現場の従業員に大きな刺激になった」と、こちらも同社のものづくり力を向上させることにつながった。
同社は新工場立ち上げ後に、新たな大手カメラメーカーとの取引も始めた。要求されるのは、5ミクロンメートルの加工精度が求められるカメラ部品の製造。微妙な温度変化を見極めながら、生産設備を調整させなければならない困難な仕事だ。「経営改善やものづくり力の向上に取り組んだからこそ、引き受けることができた。おそらく、国内でもやれる会社はうちぐらいなのでは」と、挑戦する意義を見いだしている。
地元企業と製品開発「あいくし」が誕生
また、漆塗装のユーアイヅ(会津若松市)、桐製品製造の会津桐タンス(三島町)、会津木綿の山田木綿織元(会津若松市)などと協力して、先端技術と伝統工芸の技を融合させた新製品を提供する「Aid_U」を立ち上げた。最初に市場に出した「あいくし」は、サンブライトのマグネシウム合金を精密加工する技術でくしの先端1ミリの精密なラウンド加工をし、会津に400年の歴史を持つ伝統技工の、会津塗りを施して仕上げた。軽くて丈夫なくしとして、好評を得ているという。また、くしを入れる桐箱や、箱を包む特製の手提げは会津木綿でつくるなど、徹底して地元産にこだわっている。「大変な時代に親身になって助けてくれた会津に恩返ししたいという気持ちもある」と、地元企業との連携にも力を入れていく考えだ。あいくしプロジェクトでは、収益の一部を活用して、会津の活性化や伝統工芸の支援、社会貢献活動や環境保護活動を行っている。第一弾として、会津の医療機関の方々にオーガニックゆずジュースを届けた。
人が輝く会社へ
同社の業績は、2022年7月期の決算で震災以降初めて営業利益が実質黒字に転換した。震災の賠償金などで何とか経営を維持してきたが、実力で黒字となるのに11年の歳月を要した。渡邉社長は今後、定年を廃止し何歳になっても働く意欲のある人には働き続けてもらう人事制度の導入を検討している。「生涯年収でみれば大企業に追いつけるようにしたい」と言う。震災を経て、従業員の力が成長に最も重要であることも実感した。「当社は人の力で差が付く仕事だと思っている。働き方改革、従業員の満足度向上がいい仕事につながる」と、同社の経営ビジョンである「人が輝く仕事、人で輝く会社」を経営に体現しようとしている。
企業データ
- 企業名
- 株式会社サンブライト
- Webサイト
- 設立
- 1991年10月
- 資本金
- 3000万円
- 従業員数
- 70名
- 代表者
- 渡邉忍氏
- 所在地
- 福島県双葉郡大熊町大字小良浜字高平676-1
- Tel
- 0242-76-1020
- 事業内容
- マグネシウム合金の切削加工、動的円筒形嵌合製品の精密加工