時代の趨勢を独自の感覚でつかむ
上野保(東成エレクトロビーム) 第1回「会社で学んだインキュベーション」
感無量の記念式典
「30年前に脱サラして、部下2人と3人で貸し工場に中古機1台、お客様ゼロから創業しました。そして現在、事業所4カ所、社員100名、お客様2,700社になりました。これからも研鑽を続けて、発展を目指してまいります」
さる6月2日、東京・立川駅近くのパレスホテル立川で開かれた「東成エレクトロビーム創業30周年記念式典」で挨拶に立った社長の上野保は、感無量の面持ちで30年の記憶を甦らせながら感謝の気持を述べた。
東成エレクトロビームと言えば、わが国を代表する先進的なものづくり企業として知る人ぞ知る会社だ。だが、ご多分に漏れず、創業者上野の人生も数多くの中小企業経営者と同様、30年の社史を紐解くと、まさに茨の道そのものである。そんな上野がものづくりの先進企業として脚光を浴びる理由は何なのか。
答えはその時々の産業構造の変化、技術革新さらには国の産業政策、国内外の政治・経済情勢といった動きの予兆を、いち早く独自の感性と努力でつかみ、迅速に先手を打つ稀有な才能に秀でているからに他ならない。
東成エレクトロビームは上野が30周年記念式典の挨拶でさり気なく語っているように、周到な準備を整えてから独立に踏み切ったわけではなかった。止むを得ず経営に行き詰った勤務先の都合で会社を飛び出したといった方が当たっている。
経営者上野を鍛えた大学生活と会社人生
まず、上野が「チャンスを与えてくれた」と感謝する千葉工業大学で、2つのことを学ぶことができた。1つは在籍した工業経営学科で工場経営、作業改善、原価計算といった「ものづくりの経営学」を学んだこと。今1つは大学の囲碁部に所属したことだ。父の影響で少しは心得のあった囲碁だが、学内でたまたま立ち寄った囲碁部で五段の腕前の先輩に2度連続「井目の完敗」を喫したのである。
負けん気の強い青年、上野に「絶対、極めてやろう」とその気にさせた。大学3年のときにはキャプテンを務め、腕前も三段に昇進していた。このとき、上野は囲碁から経営学の基礎を学んだ。「囲碁と経営は物凄い結びつきがあるんです。例えば布石とは戦略のことです。捨て石もそうです。客観的に観ることを岡目八目と言います。決めた通りやれば失敗しないことを定石通りと言います。会社経営の実践面でマネジメントの参考になることばかりです。その後の人生にとっても囲碁はまさに幸運の女神でした」と上野は言い切る。
社会に出てからも上野を育て、鍛え上げる数々の試練が待ち受けていた。上野が1962年3月、千葉工業大学を卒業して選んだ就職先は汎用エンジン、航空機用レシプロエンジン、農機具、建機、油圧、鋳造、熱処理などを幅広く手掛ける東証1部上場で東大和市に本社のあった富士自動車。
ところが、上野が期待に胸を膨らませて入社したはずの会社だったが、わずか5カ月後の8月にはあっけなく会社は経営破綻してしまう。上野にとっての「数奇な人生の始まり」だった。
会社の資本も入れ替わり、社名もゼノアに変更された。しかし、1970年に再び経営危機に見舞われ、部課長クラスを半減して小松ゼノアとして再々出発。この間、上野のサラリーマン人生は会社の業績が浮沈を繰り返す中で、将来の独立を予見したかのように、着々と経験を積み上げていく。15年後に独立する若い上野に、極めて密度の濃い知識と経験を授けたのである。
入社してからの上野は、管理部やマネジメント部門の配属を希望して研修生活を過ごしていた。ところが経営破綻したことで「直転」(直接転属)といって新卒者は全員、作業現場へ配属となり、上野は「歯切り班」に配属されたのだ。職場は粘度の高い油を使うため、いくら洗っても油が落ちない。油の臭いも取れない。夏場には機械も焼け付くような熱さになり、汗だくになる。それぞれ配属された最悪の職場環境に新卒者は皆、「職工なんてやってられるか!」と、退職する者が後を絶たない。
そんなある日、班長が来て「今、君達は直転かもしれないが、学卒なんだから必ず技術員として事務所に呼ばれる。そのとき、君たちが現場に仕事を頼みに来ても、後回しにされてしまうぞ。今が一番大事なときだ。一生懸命やりなさい」と、上野を戒めた。
「これは効きましたね」(上野)。確かに現場は義理人情の支配する世界だ。以来、上野に接する職工たちの態度は一様に優しかったという。
若干33歳で事業部長に抜擢された上野。独立するまでの4年間もまた上野にとっては「生きた会社でインキュベーションを勉強させていただいたと思っています」と言わせるほど、目まぐるしい体験をするのである。(敬称略)
掲載日:2007年6月11日