中小企業のイノベーション
「大切なのは人」 職場改革で若手社員を確保 付加価値が人を惹きつける【三共鍍金株式会社(東京都板橋区)】
2024年 3月 8日
ものづくり企業が注目される一方、若い人材の確保に苦しむ企業は少なくない。そんな中、「3K(キツい、汚い、危険)」と揶揄されがちな鍍金(めっき)工場でありながら、募集すれば即座に応募があるというのが三共鍍金株式会社。匂いひとつないクリーンな職場、休暇は年間125日、各種保険完備、時短勤務で定時を16時30分としているほか、ボーナスは年3回……。まさにホワイトな企業だが、社長の苅宿充久氏は昭和の時代に厳しい労働環境の中で馬車馬のように働いた、根性派の世代。苦労を知るからこその働き方改革は、若い世代にも魅力的だ。
勤労学生として鍍金の世界へ
全国鍍金工業組合連合会会長、現代の名工、令和5年秋の叙勲受章……輝かしい肩書をもつ三共鍍金株式会社社長の苅宿充久氏の人生は、まるで小説のようにドラマチックだ。
貧しい家庭に生まれ、幼い弟妹の世話をしながら幼少のころから母の内職を手伝うなどして家計を助けてきたという苅宿氏。高校への進学費用も自ら稼ぎ、晴れて進学校に入学するも、間もなく父が病に倒れてしまう。自身の学費だけでなく、家計をも担う大黒柱となったことから、高校を中退せざるをえなくなった。そのとき縁あって入社したのが三共鍍金である。
学業への未練は断ちがたく、定時制高校に編入しての二足の草鞋。当時の社長・田中光煕氏(三共鍍金の創設者のひとり)は苅宿氏に理解を示し、定時の17時よりも30分早い16時半に仕事を切り上げて遅刻せずに学校へ行けるよう配慮してくれた。高校生の苅宿氏は当時、学業はもちろん部活にも精を出し、会社が用意してくれた寮に帰るころには「バタンキューの状態」だったというが、朝からきっちりと職場に出かけ、無遅刻無欠席を貫いている。
モチベーションは“恩返し”
高度経済成長期のさなか、仕事は多忙を極めた。しかし高校の成績がよかったこともあり大学進学を勧められると、将来中学校教師に、そしてサッカー部の顧問になりたいという夢もあったので進学。日中は三共鍍金で働く傍ら、夜間は大学に通う生活を続けた。田中社長は「(大学にまで通う)お前は数字に強いから」と、肉体労働ではなく事務の仕事をふってくれたが、これは学業との両立が体力的に難しかろうという田中社長の計らいだったと苅宿氏は振り返る。だからこそ、大学卒業時は迷いに迷って教員への夢をあきらめ、フルタイムの正社員として三共鍍金に残ることを決意した。このころから苅宿氏はなによりも“人”を大切にする人であったことがうかがえる。
“三共鍍金だけ”の付加価値を創造
それからというもの、とにかく働きに働いた苅宿氏。昭和はとにかく“24時間働けますか”の時代だ。渋滞を避けて納品が深夜となることも当たり前。文字通り昼夜を問わず働く日々。営業として取引先に出向いては、担当者との雑談から困っていることなどニーズをくみ取り、社に戻ってそれに応えられる商品をつくろうと自ら試行錯誤した。たとえば、「はがれない鍍金」とか、「(F1のフォーミュラカー向けに)軽量のアルミに鍍金をつける方法」とか。当然時間外労働ではあったが、苅宿氏が考案し実用化しためっき技術は他社にはない独自のものだったこともあり、うわさがうわさを呼び新規の受注も舞い込んでくる。苅宿氏のやりかたは、とにかく他社に真似のできないユニークネスをもつこと。あえて特許は取得せず、三共鍍金にしかできない技術ゆえに値引き交渉には一切応じない、強気の営業が可能になるのだ。社への貢献は多大なものになっていき、いつしか田中社長から「これからはお前がやっていくんだ」と次期社長にと嘱望されるようになる。そして1996年、田中社長の逝去に伴い、前社長からの指名というかたちで苅宿氏が三共鍍金の社長に就任。苅宿氏48歳のときであった。
社長としての職場改革
社長に就任したとはいえ、現役で営業や現場にも出るのは相変わらず。なにしろ「苅宿さん」といえば三共鍍金の“顔”なのだ。しかし、自ら大きな決断ができる立場となったいま、まず手掛けたのは新社屋の建設だった。
というのも、このころは求人募集をかけても、薄暗く換気も悪い工場を見るなり面接も受けずに帰ってしまう若者が少なくなかったのだ。苅宿氏自身、高校生のころ鍍金に使う薬剤をもろに吸い込んで鼻血が止まらなくなったことがある。同じ経験を社員にさせたくはないと、工場機能に加え、完璧な換気システムを導入。更衣室とシャワー室も備えた。自身はとにかく身を粉にして働いたが、もう時代が違う。家族と過ごす時間を確保できるよう完全週休二日制とし、がん保険などさまざまな保険を拡充して安心して働ける会社を目指した。「昔と同じじゃ、ついてくる人なんていない」と苅宿氏。自身は体を壊したときも休まず働き続けたが、社員にそこまでさせようとは思っていない。気持ちよく働いてほしい、とその思いが実り、匂いもなくクリーンな環境の新工場となってからは求人に苦労しなくなったという。
一番重たいものを持つのが“重役”
苅宿氏のリーダーシップのもと、三共鍍金は順調に業績を伸ばした。しかし、新社屋建設の過程で、重大な事件が発生した。鍍金工場は環境への配慮などが必須であり、そのための設備投資は大きなものになる。新社屋も周囲と従業員の職場環境保全にこだわったため、1年間の売上よりも多額の建設費用をかけているのだが、購入した物件に大きな瑕疵が見つかったのだ。
居抜きで以前工場だった土地を購入し、三共鍍金で建物の解体から作業を始めたところ、なんと地下から数千リットルの塩酸や六価クロムが入ったままのタンクが出てきたのである。これらは産業廃棄物であり、処分するのにも1億円ほどの費用がかかる。売主とは1年あまりをかけた裁判に発展し、その後全面勝訴したものの、売主の会社社長が自己破産してしまい損害賠償金をほとんど回収できないという事態に。これ以上損失を増やすわけにもいかず、苅宿氏と取締役工場長とで周辺の汚染された土をユンボで掘り起こしたり、井戸に溜まっていた廃油を汲みだしたりして、半年をかけて環境復帰をしたのだった。「重たいものを持つから“重役”って言うんだよなぁ」と今でこそ冗談もでてくるが、当時の売り上げがよかったから切り抜けられたのであって、そうでなければとてもじゃないが払いきれなかっただろうと話す。
いつでも最優先するのは人 『離職率が低く、長く勤める人が多い』秘訣
パンデミックでもご多分に漏れず三共鍍金も影響を受けた。飲食店の営業が制限されたため、ビールジョッキなどの金型の発注が激減したのだ。代わりにキッチン用品の金型が出るようになったりしたが、とにかく売り上げが落ちている。しかし苅宿社長は「どうせそんなに仕事はないのだから」と業務時間を16時半までの時短勤務を決定。その分機械を止め、人がいなくても動かせるものは夜中に稼働させることで電気代を節約した。基本給やボーナスはカットしなかった。だんだん仕事が増えてくると、16時半までの勤務時間では仕事が終わらなくなってくるが、従業員たちは自ら無駄な作業を見直し、ときには昼休みを早めに切り上げるなどして効率を上げるようになったという。本来の勤務時間は17時半までなので、16時半以降まで残っても残業にはならない。「強制はしていないけれど、みんな早く帰りたいからね」と、思わぬ効果ににっこり。苦境にあっても従業員に負担をかけないのが苅宿社長だ。
景気が安定すれば時短はやめるというが、従業員の士気が下がるとは考えていない。業績が好調となればボーナスで還元されるからだ。がんばったらそのがんばりに見合った評価をする。それは田中前社長から引き継いだ教えのひとつ。実際のところ、三共鍍金の離職率は低く、長く勤める人が多いそう。「従業員の7割が持ち家を買えているのは、ちょっと自慢かな」と苅宿社長もいうとおり、2011年には『板橋 働きがいのある会社賞』を受賞している。
苅宿氏は社長室に閉じこもることはなく、今も現役で営業にも出かけていく。しかし必ず若手を連れていくことにしている。「昔は担当者も同年代や年上だったけれど、今はみんな俺より若いから話しにくいだろう」と、人間関係の構築しやすさを考えてのこと。時代は昭和から平成を経て令和へ、従業員の会社に対する姿勢は大きく変わり、滅私奉公のような働き方は前時代のものとなった。リモートワークを導入する企業も増え、ウェブ上で取引が成立することも珍しくない。そんな世の中でも、やはり最後まで大切にしたいのは人。苅宿社長がいかにも昭和的な“人情派”であることも事実だが、それが仕事に結びつき、また、従業員に長く働きたいと思わせる魅力を感じさせてもいる。“人”を最大限に活用できるポイントもまた、そこに集約されているにちがいない。
企業データ
- 企業名
- 三共鍍金株式会社
- Webサイト
- 設立
- 1960年
- 資本金
- 2,000万円
- 従業員数
- 40名
- 代表者
- 苅宿充久 氏
- 所在地
- (本社)東京都板橋区若木1丁目26番8号
- Tel
- 03-3937-3888
- 事業内容
- めっき業務、めっきに伴う処理加工業務、技術研究・開発