本田技研工業創業者

本田宗一郎と藤沢武夫(本田技研工業) 第3回 アプレな男(3)

著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良

若さと金にものをいわせて芸者を買っては飲めや歌えの大騒ぎをしたり、芸者連中を連れて方々を遊び回った。おかげで長唄、端唄、どどいつなど別に習ったわけでもないのに自然におぼえてしまい、人前でもいくらか聞いてもらえるようになった。

二十五、六歳のころには私は自家用車——そのころはお屋敷車といっていた。もちろん外国製——を二台持っていた。その車に芸者を乗せてはよく遊びに出かけたものである。
(同上)

前述したように、27歳で妻をめとった本田は、いつしか地方の名士となっていたが、翌年、繁盛していた修理工場を突然、閉じてしまう。この場合の理由が、いかにもこの人物らしい独善的なものであった。

なぜ、店を閉めたのか。車の修理技術を教えた工員たちが、ボツボツ独立して店をもつようになり、それらと競合するのが嫌だった、と本田はいうのである。

このあたりに、一介の町工場の主で終わる人と、世界に飛躍する人の差があったのかもしれない。本田には自分に対する全幅な信頼、身につけた技術に関する満々たる自信があった。

無論、経営者としての読みもあったようだ。

昭和12年(1937)の支那事変以来、日本は統制経済に移行、それを強化したこともあり、自動車を修理するための、材料の入手がそもそも難しくなっていた現実もあった。

先細りの仕事を、身内の人間と取り合うよりは、一層のこと新しい製造業への転出をはかった方がいい、と判断したわけだが、ピストンリングの製造会社を考え「東海精機」を設立したわりには、本田に鋳物に関する専門の知識はなかった。

だが、転換してみたもののピストンリングの製造は考えていたほど簡単にはいかなかった。しかたがないので鋳物屋のおやじに聞きに行くと「途中からやろうたって、そんな簡単にできるわけがない。やっぱり年期奉公しなければ......」と剣もほろろの返事、作れるもの、売れるものと思って、すでに機械は金をかけて据えつけ、工員も五十人ぐらいかかえているのだから、どうしても成功させなくてはならなかった。

宮本専務といっしょに毎日、夜中の二時三時まで鋳物の研究に取り組んだ。髪はのび放題、妻を工場に呼んで長くのびたのを切らせながら仕事を続け、疲れてくると、酒を一杯ひっかけて炉ばたのござの上でゴロ寝するという日が続いた。私が一生のうちで最も精魂をつくし、夜を日に継いで苦吟し続けたのはこのころである。たくわえも底をつき、妻の物まで質屋に運んだ。ここで挫折したら皆が飢え死にするとがんばったが、仕事はさっぱり進展しない。絶体絶命のピンチに追い込まれた。
(同上)

(この項つづく)

掲載日:2006年3月8日