ソニー創業者
井深大(ソニー) 第4回 世界のソニーへ
著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良
「やればなんだってできるのだ」
この成功体験がテープレコーダーのトランク型の開発成功に結びつき、次の飛躍となるトランジスターラジオの開発へと受け継がれていく。
アメリカのウエスタン社が開発したトランジスターをラジオに使おうと思いついたものの、製作は一向に前進せず、研究開発費は出ていくのみであった。
「私はこのころトランジスターに手を出したことはたいへんな失敗だったかと幾度も反省させられた」
と、のちに井深は『私の履歴書』で告白している。ほかの商品化がスムーズにいっていればこその継続であった。どうにか世界で2番目のトランジスターラジオの商品化に辿りついた。
この頃、盛田はそのラジオをもってアメリカへ売り込みにいっている。
井深はテープレコーダーのときと同様、ラジオの小型化を企画した。改良して昭和32年、63型と称したラジオは世界最小の大きさで、ポケットに入った。この小型化の成功は、一家に1台のラジオの常識を、1人に1台の時代に踏み込ませることとなった。
ソニーは物真似で追随する他のメーカーを振り切るために短波用、超短波用(FM用)トランジスターの開発へ進み、世界初のトランジスターテレビ(8インチ)、さらにはマイクロテレビの発売へと繋がっていく。無論、成功した開発の影には、井深の決断で研究を中断したものも少なくなかった。電卓、電子写真……etc。
しかし、“ソニー”は世界に大きくはばたいた。
井深は言う。
「——ほんとうの経営者は、来年、再来年になにをやるか。それはだんだんひろげていくのじゃなしに、だんだんせばめていくことだと思う。そこに集中しようと思ったら、いらんことはやめていく。それでなきゃ集中できない」
「去年、アメリカのデュポンの人がいっていた。5年後の商品は60%がいま世の中に出てないもんだっていうんですね。これ、ウソじゃないと思う。そうなるとね、学校で教わったことなんて、少なくとも10年前のことなんだ。そこへ予想しないものが出てくるからあわてるんだけれども、なにが出てきても恐ろしくないという心構えをもつためには、それだけの応用力、フレキシビリティをもった人をこさえること。それが学校の先生の使命だと思うんだな」
一方で井深は、国民の間に広く科学技術を普及させたいと考え、「ソニー理科教育振興資金」という制度も作った。昭和34年のことである。
昭和46年、63歳の彼は代表取締役会長となり、5年後には取締役名誉会長となった。 そして平成9年(1997)12月19日、急性心不全のため、この世を去っている。享年89。 井深とともに“昭和のおやじさん”を代表した本田宗一郎は、その5年前に84歳で没していた。
もし、“昭和のおやじさん”たちが、平成不況の渦中に、いま、町工場を創業していたとすれば、彼らは喜々としてその苦境を脱したに違いない。
夢とわがままが実現できる、こんな幸福な世の中があるものか、といいつつ。【文中敬称略】
(了)
掲載日:2006年1月25日