起業の第一は海外ブランドの確立!
中村正治(ワテック) 第2回「海外展示会の出品に活路」
貴重な経験が知的資産
若さゆえの特権だった。
極端な閉鎖社会から解き放たれ、戦後の自由な社会で育った五十嵐が、海外に強い憧れを抱いても不思議ではなかった。その一方で、社会全体がモノのない時代。貧しさを強いられた子供たちが舶来品にあこがれ、ごく自然にモノづくりへの関心が高まったのもこの時代の風潮だった。
モノづくりと海外への憧れ。二者択一の進路判断を迫られて五十嵐が選択したのは、海外だった。モノづくりは何歳になってもできる。しかし、海外を相手に仕事をするチャンスは少ないとの判断があったのだろう。そして五十嵐は、大学で貿易を専攻するのである。
五十嵐がストロボ会社に就職したのは、自宅と会社が近かったことに加え、海外とともに子供の頃から憧れていたモノづくりに関われると考えたからである。
事務系出身の五十嵐ではあるが、入社間もなくして技術に明るい異色の人材として頭角を現す。開発エンジニアとして米国やドイツの大手半導体メーカーへのカスタムIC生産のための技術折衝や打ち合わせなどを通じて、電子回路設計のスペシャリストとしての実績を積み重ねる。
当時の中小企業としては部品を海外調達すること自体が先駆的な試みだったし、こうした貴重な経験を持つ五十嵐や中村らの経営陣がワテックの知的資産であり、強みでもあるのだ。
自社ブランドに固執
ワテックが超小型CCDカメラの事業化というモノづくりを始めてから、まず最初に販路開拓に選んだ先は海外市場だった。日本が得意とするカメラ、双眼鏡、望遠鏡など同じ光学機器類が戦後、輸出産業として欧米市場を目指したのと、ワテックがまず海外市場を選択したのとは大きく理由が異なっていた。
なぜ、ワテックが海外に市場を求めたのか。これには2つの理由があった。
中村によると、「1つは会社の将来を考え、国内大手のブランドで販売するOEM供給する戦略ではなく、会社独自のブランドを確立する。それにはまず海外でブランド力を高めていく。今1つは欧米のマーケットは製品の品質、性能、価格が良ければすぐビジネスとして採用してくれます。これに対し日本国内は保守的なマーケットですから、いくら良い品物であっても大手さんの製品を使っているユーザーは、簡単には取引先を変えようとはしないものです」というのが最大の理由だった。
五十嵐に部品調達などの経験があるといっても、海外にセキュリティ分野の販売ルートをもっているわけでもない。そこで、欧米で開催されたセキュリティ関係の展示会へ初めて出品してみた。出品したのは防犯用の超小型CCDカメラだった。
ところが製品を展示してみると、現物を見た来場者たちは「こんなに小さいカメラで本当に写るのか」と、たいへんな驚きようだったという。
その当時はまだ小型カメラが市場に出回っていなかった。あるのは銀行や駅、コンビニに設置されていた、四角張った大きなカメラのみ。監視カメラには撮像管が使われていたため、小型化するのが困難だったわけである。
輸出はすべて直接取引。英語での対応がほとんどで、2〜3人の海外担当者で統括していた。当然、生産現場も慌ただしくなる。バブルの真最中だったこともあり、工場地帯では人を募集しても思うように集まらない。わずか3名の女性パートでは組み立て生産が間に合わない。そこで1990年、山形県東根市に山形工場を新設し、生産を開始した。
中村が入社して3年後の1996年1月、山形県鶴岡市に本社工場を全面移転した。鶴岡市は五十嵐の郷里でもあった。(敬称略)
掲載日:2007年2月19日