金型業界のエジソン

竹内宏(新興セルビック) 第1回「わがモノづくり事始め」

竹内宏社長 竹内宏社長
竹内宏社長

プラザ合意が一大転機に

「1985年のプラザ合意。これまでの危機とは何かが違う」

新興金型製作所(新興セルビックの前身)の竹内 宏の目はプラザ合意を報じる新聞にくぎ付けとなった。1ドル=235円だった円相場は合意アナウンスを引き金に1日で一挙に20円も上昇した。政府・日銀の市場介入も及び腰だ。貿易赤字解消を狙う米国の強い意思が感じられる。

1971年のニクソンショック、1973年の第1次オイルショック、続く1978年の第2次オイルショックと日本を震撼させた経済危機でも感じなかった何かが全身を襲った。これまでの危機は"金型産業に不況なし"といわれ高度成長を支えてきた業界だっただけに「じっと我慢していれば、なんとなく嵐も通り過ぎた」時代だった。

ところが、今回の危機は「産業構造を根底から覆すような事態だ」竹内は本能的に緊急警報を感じ取った。事実、それからは連日円相場が上昇、わずか1年でドルの価値は半分以下になってしまった。この急激な円高は輸出中心の取引先弱電メーカーを飲み込んだ。輸出型産業は大半が採算割れとなり、経営危機に見舞われる。

取引先からの値下げ要求は金型業界にも及んだ。しかも海外工場移転が相次ぎ、竹内の金型製造の仕事が一挙に吹き飛んでしまった。「自分でやった仕事に、自分で値段がつけられなくなった」のである。

竹内にも円高の嵐が容赦なく襲う。「取引先と一緒に海外進出しこれまでと同様に下請として生きるか。それとも国内で自立の道を探すのか」−竹内に生きるか死ぬかの決断を突きつけられたとも言える。

思い悩んだ竹内は「自分の強みは一体何だろう」と、自問自答を繰り返す毎日が続いた。「取引先について海外に進出すれば当座の仕事は確保できる」「職人は確保できるだろうか」−様々な思いが去来する。そして最後に導き出した結論は「会社のトップとして自分が何をしようと、誰からも文句を言われない。好き勝手にモノづくりに専念する。独立自営だからこそ即座にアイデアを試せる楽しみもある」。開き直りである。足元を見つめ直した結果の開き直りであることは竹内も十分理解していた。

竹内は国内に踏み留まって「下請から脱却して自社製品を持つ」と決断した。旺盛なチャレンジ精神は、日を追うごとに高まっていく。自分の製品を開発することが、竹内の若い頃からの夢だったからである。図らずもプラザ合意が第2創業への第1歩となった。

それから時を置かずして、ちょっとしたきっかけで、自社製品の開発が日の目を見る機会が訪れる。

14歳で出会った金型づくり

「モノづくりをやってきて良かった」

金型製造と出会って46年間、今年還暦を迎えた新興セルビック社長の竹内の偽らざる心境である。叩き上げ職人、竹内にとってのモノづくりは、単に金型を製造するに留まらず、金型技術を基礎にした独創的な自社製品開発への挑戦だった。それが強みになっている。

東京・品川区の中心部を南北に走る東急大井町線の旗の台駅から歩いて3分。住宅密集地の路地を入った袋小路に新興セルビックの本社工場がある。木造2階建て建物を幾つかつなぎ合わせた、いかにもの町工場だ。竹内は朝7時に出社して夜更けの11時過ぎまで工場で過ごし、その大半の時間を自社製品の開発に費やす。

京浜工業地帯の中心部、川崎で生を受けた竹内は、父親の仕事の関係で4歳の頃から長野県富士見市で幼少期を過ごす。少年竹内に長い金型人生を送る端緒となった話が舞い込んだのは、14歳の時だった。

「叔父の友人が金型業界最大手の池上金型製作所の社長だった。その叔父が社長に触発されて金型会社をはじめた。父親も工場長として働くことになり、一家総出で大田区に移り住み、金型一筋の人生が始まった」

高校時代にはすでに金型の磨きなど父親の手伝いだけでなく、見習い職人に仕事を教えるほどに職人らしさが身についていた。卒業後もそこで働いていると、ある日突然、父親が会社を辞めると言い出した。竹内にはその理由が想像できた。叔父にも竹内と同じ年の跡継ぎ息子がいたため次第に竹内親子が煙たくなったのである。

金型以外に食べていく術を知らなかった竹内は、一念発起し父親と一緒に新興金型製作所を設立し独立した。一本立ちしてはみたものの、その後の5年間は借工場を転々と渡り歩く暮らしが続く。そして、ようやくたどり着いたのが旗の台だった。この工場から120数件にのぼる取得特許が生まれることになる。(敬称略)

掲載日:2006年10月16日