本田技研工業創業者
本田宗一郎と藤沢武夫(本田技研工業) 第2回 アプレな男(2)
著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良
お世辞にも教養とか、上品さとは縁遠い世界に、世界の本田宗一郎は生まれ育っていた。 この原点を見誤ると、本当の意味での本田イズムがわからなくなってしまう。
本田は明治39年(1906)11月17日に、かつては静岡県下の片田舎、現在でいう天竜市に生まれている。
父の儀平は村の鍛冶屋で、本田はその長男として、鞴や鉄槌の音とともに育った。 生まれつき手先が器用で、ものづくりが好きであった彼は、小学校2年のとき(大正3年)、飛行機「ナイルス・スミス号」が飛ぶのを浜松へ見学にいき、機械をいじることへのあこがれ、エンジンの魅力にとりつかれて、尋常小学校—高等小学校時代をすごした。
立志伝によくあるいたずら小僧で、生活の貧しさからくるくやしい思い出を、彼は生涯抱きつづけたようだ。
私の家は貧乏だったので、着物もそう買ってもらえるわけがない。だからソデ口はこすった鼻が固まって合成樹脂のようにコチコチになっていた。隣の家は金持ちで、5月の節句になるといつも弁慶とか義経の武者人形を飾るので、私はそれが見たくてしかたがなかった。しかし、見に行くと「お前みたいなきたない子は来ちゃいけない」と追い返された。そのときのくやしさは、いまでも忘れない。金がある、ないで人を差別する、なんでそうするのかと疑問を持ったことをいまだに覚えている。
(同上)
鍛冶屋から自転車屋に商売替えした父を手伝い、貧しさからの脱出をも考えて、本田は自ら東京の自動車修理工場「アート商会」に就職を希望する。この選択はのちの"ホンダ"を考える場合、きわめて重大であった。彼はのちに、「アート商会」の主人・榊原侑三を生涯の恩人に数えている。
柳行李一つを担いで、父に連れられ、自動車修理工場に丁稚小僧となって住み込んだ本田は、学校教育らしいものを受けることなく、まったく別の世界=実践によって技術を習得する世界へ、半年の子守を経て入っていく。
——徒弟制度の厳格な時代であった。
右も左もわからない小僧にとっては、きわめて冷酷な世界であったに違いない。しかし、本田の回想譚にはそうした部分が皆目、見当らない。ただただ、目前の修理実務に立ち向かった。
当時の「アート商会」には、欧米先進国の輸入自動車が大小さまざまのメーカーから、多種多様の車種まで、次から次へともちこまれた。これを一つ一つ修理する現場・現物・現実の中で、本田は好きな機械いじりの世界から、より高度な技術を自得する世界へ進んでいく。
ただし、「アート商会」に6年つとめた彼は、その間、より一層の学問——たとえば基礎となる分野——をつもうとは考えず、手先の器用さと己れの経験則、そこから生まれた発想に支えられて、日々の仕事にどっぷりとつかり、それを楽しみ、仕事上、あるいは束の間の余暇には連日、オートバイを乗りまわしておもしろがった。
ときに、競走用自動車(レーサー)を、払い下げの外車をつかって改造し、製造。オートレースにライディングメカニックとして出場し、自らが整備したレーサーが優勝したこともあった。
加えて、国民の義務であった徴兵検査では、色盲と誤診されたとかで、甲種合格を免がれ、軍隊生活をおくることもなく、好きな自動車修理——次々と押し寄せてくる無理難題の修理に、我を忘れて熱中した。その甲斐あって、22歳で"のれんわけ"をしてもらい、「アート商会浜松支店」の看板を掲げて、経営者となった。
当初は、
「あんな若僧に何ができるか」
と同業他社にいわれていたが、身につけた東京仕込みの技術は本ものである。
田舎の修理工に直せなくても、本田のところに持ち込まれれば、見事にポンコツ車はよみがえった。本田の名は口こみで知られていき、気がつけば毎月1000円以上ももうかる店になり、工員もいつしか50人ほどにふえた
(この項つづく)
掲載日:2006年3月1日
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