Be a Great Small
原酒造
地産地消にこだわる地域に根ざした酒造り
2007年7月16日10時13分、新潟県中越沖を震度6強の地震が襲った。創業200年を迎えようかという原酒造も、工場の7割が全壊という甚大な被害を受ける。「わずか1分足らずの揺れで、200年の歴史を潰されてたまるか」——原吉隆社長は従業員とともに酒蔵の立て直しに奔走してきた。震災から10年の節目を迎える今、さまざまに支えられてきた地域への恩返しを胸に、200年前から続く「人を幸せにする酒造り」への挑戦を続けている。
- いち早く近代化に取り組み、最先端の酒造り
- 原材料にこだわり、酒造好適米「越神楽」を開発
- 従業員と一丸となって震災からの復興を成し遂げる
日中国交正常化で「越の誉」の名が全国に
原酒造は江戸時代後期の1814(文化11)年、新潟県柏崎市で創業した。もともと原家は鍋や釜などの鋳型の製造・修理を請負っていたが、初代原幸太郎は家督を妹に譲り、酒造りを始めた。
江戸を生き抜き、明治も終わりに差しかかるころ、原酒造に最初の試練が降りかかる。1911(明治44)年の柏崎大火である。海風に煽られ、当時の木造の酒蔵は全焼。取引銀行も破産し、廃業寸前の事態となった。以前から酒というもので生計を立てていることについて漠然とした疑問を抱いていた4代目の原吉郎は事業を継続するか悩む。寺にこもり悩み抜き、酒は世に必要との想いに至る。確かに酒は飲み方を間違えると命にかかわる。一方で、悲しいときには悲しみを和らげ、楽しいときは楽しさを何倍にもするものでもある。原??郎は「人を幸せにする酒造り」のため復興に全力を注ぎ、事業を続ける決意をする。この「人を幸せにする酒造り」は原酒造の経営理念として現在も生き続けている。
その後1950(昭和25)年の株式会社化、1961(昭和36)年の中村戍蔵杜氏の越後杜氏として、県下初の黄綬褒章受賞を経て、原酒造の名が世に広く知れ渡ったのが1972(昭和47)年の日中国交正常化である。調印前日の記念晩餐会の乾杯酒に原酒造の「越の誉」が使用され、その様子が全国に放映された。その後に引き続く昭和50年代の地酒ブームもあり、原酒造は首都圏への進出も果たした。
技術にこだわり、原材料にこだわる越後の酒造り
昭和50年代の地酒ブームの折から、新潟県内の酒造メーカーでは品質重視の酒造りをしている。原酒造はこの品質重視において一歩先を歩んでいる。
酒造りでは先代の時代の1965(昭和40)年に、県内でいち早く近代的な醸造設備を備えた新工場を建造した。この新工場は冷暖房完備で年間製造が可能である。それまでの酒造りは季節に合わせ、仕込みの時期になると人を雇っていた。しかしこれでは造る人間が変わると味が変わってしまう。そこで先代はこれまで季節雇用だったものを年中雇用に切り替え、酒造りの技術を社内に蓄積するようにした。伝統的な杜氏制から近代的な工場長制への転換である。
品質重視の近代化は原吉隆社長の代に引き継がれる。1995(平成7)年に精米工場を新設し、コンピュータ精米機を導入した。酒造りは精米に始まる。大吟醸の精米となると約3日間、3交代勤務で米を磨き続ける。この間、厳格な品質管理が必要であり、従業員への負担が大きいため、精米は他社と共同で行う酒造メーカーも多い。原酒造は全量自家精米にこだわり、他の酒造メーカーと差別化を図る。新たな精米機により、自動管理による夜間無人運転が可能となり、品質管理と労務管理を同時に向上させることができた。
そして酒造りに欠かせない米作り。1995(平成7)年に米の流通を制限していた食糧管理法が廃止され、1997(平成9)年から原酒造は地元の農家との契約栽培を始めた。現在では酒米の約8割を契約栽培で賄い、残りもすべて新潟県産を使用している。個性的で品質の良い酒造りのためには原材料へのこだわりが欠かせない。原酒造は上越市にある国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構中央農業研究センター北陸研究拠点と共同で酒米の新品種開発に乗り出す。ここで生まれた新潟県酒造好適米「越神楽」は2005(平成17)年の第76回関東信越国税局酒類鑑評会で首席第一位を受賞。地産地消の酒造りが花開いた瞬間である。
順風満帆にみえた2007(平成19)年、新潟県中越沖を震度6強の地震が襲った。
「戦闘状態」だった震災からの復興の10年
「小さいころから明治44年の全焼からの復活の話を聞かされてきた。それで知らず知らずのうちに困難に立ち向かう心構えができていたのかもしれない」——震災を振り返り原社長は語る。工場の7割が全壊し、出入りの大工に手の施しようがないとまで言わしめた。再建のためには残った建物も一度すべて潰さなければならない。絶望的な状況のなかで、社員とその家族の無事が原社長に「まだ、ついている」と思わせた。
残ったもので立て直し、冬の仕込みに間に合わせる。原社長は従業員の前で、「見てのとおり被害は大きいが、絶対に大丈夫だ。必ずみんなで力を合わせて立て直す」と誓う。ここから原酒造復活への道のりが始まった。とはいえ、断水により水も使えない状況でできることは少ない。炎天下のなかで先の見えないゴミの分別作業が続き、従業員の士気は低下していた。原社長は具体的な目標を示す必要があると考え、「8月16日までに生産再開」を指示した。万全な生産にはほど遠いながらも、酒造りが見えたことで従業員の士気も上がった。
次なる目標は冬の仕込みに間に合わせること。1965(昭和40)年建造の工場は一部陥没があったものの、一冬をしのぐことなら可能である。この工場を中心に仮設の貯蔵室、仮設の麹室など仮設施設でつないだ。仮設とはいえ200年の信用がある。「地震のために品質を落とすな、不良品をだすな」と従業員に何度も言い聞かせ、震災1年目の仕込みを終えることができた。
翌年には新たな酒蔵「和醸蔵」を建造する。2年目の仕込みに間に合わせるため、4月に着工し9月には竣工した。これで製造は万全となる。その後の第2期復旧工事に際し、「単なるものづくりの工場では寂しい。地域に根ざした人の集まる場、情報発信の場としたい」との想いを形にした「酒彩館」を建造した。酒彩館では「越の誉」の試飲のほか、多目的ホールでの講演会なども開催している。10月には新酒祭りを行い、4,000人に新酒を振る舞うことができるに至った。そして震災から8年目の2015(平成27)年、資材倉庫の完成をもってほぼ主要な部分の立て直しを終え、原酒造は震災からの完全復活を果たした。
震災で失ったものは多い。安定供給ができないことで失った棚は数知れない。一方で、「捨てる神あれば拾う神あり」、震災を機に取引が始まったところも多くある。何より地元柏崎の人々に支えられてきた。原社長は多くの世話になった人々への恩返しを口にする。力なくしては恩返しできない。原酒造はこれからも一人ひとりファンを増やしていく地道な努力を続けていく。
One Point
復活を導いた早期の頭の整理
震災から1月足らずで生産を再開し、その冬の仕込みに間に合わせることができたのは、「早い段階で頭を整理できたから」と原社長は振り返る。地震直後の取材攻勢で現場指揮もできないまま1日が終わった反省から、今後の難局を乗り切るためになすべきことをまとめた。復旧までの手順、内部体制、資金、マスコミへの対応などである。この冷静さと、「戦闘状態」ともいうべき復旧への熱意が、未曽有の災害からの復活への道を切り開いた。
企業データ
- 企業名
- 原酒造株式会社
- Webサイト
- 代表者
- 原吉隆社長
- 所在地
- 新潟県柏崎市新橋5番12号
- 事業内容
- 清酒製造業