文系社長の"モノづくり人生"

橋本秀夫(日本エクシード) 第2回「非同族経営誕生の秘話」

研磨・洗浄装置 研磨・洗浄装置
研磨・洗浄装置

集積回路(IC)に魅せられて

橋本が昭和45年7月、日本エクシードに入社したキッカケは偶然の賜物だった。明治大学商学部在学中に志していた公認会計士の国家試験に失敗。橋本は仕方なくして留年して大学の特別会計研究室に籍を置く。そんな橋本に、大物公認会計士として知られていた先輩が声をかけた。「私が顧問している会社に集積回路(IC)を扱っている面白い会社がある」と言って、橋本に紹介した。東京・新宿に本社があった日本エクシードの前身、川口光学測器だった。

高度成長華やかな当時は、集積回路という言葉に先端技術時代の到来を予測させる響きがあった。

「私にも多少、知識がありましたし、何となく将来性のありそうな会社だなという感じでした」

まだ若かっただけに単純な見方であり感覚的なものだったかも知れないが、この直感は後々、見事に的中することになる。

橋本の生家は東京・向島の下町。今話題の第2東京タワー建設予定地からは目と鼻の先だ。包装材料販売店の四男坊として育った橋本は、親の勧めもあり子供の頃から公認会計士になることが既定路線でもあった。

しかし、当時の向島は町工場の密集地。お店に出入りする大人達はプレス屋さん、金型屋さんの職人や町工場の主ばかり。子供心に否が応でもモノづくりを身近に感じる街だった。

そんな環境で育った橋本には、製造業で技術者や技能者と共に働くことに何ら違和感はなかった。それどころか、職人達に親近感を覚えていた。

3代目のサラリーマン社長

橋本が3代目の社長に抜擢されたのは平成3年。弱冠45歳。サラリーマン社長としては異例の若さだ。

当時、日本エクシードは創立30周年という節目の年。会社の寿命30年説が話題となった頃のことだ。しかも平成3年はバブルのはじけた年。最悪の経済環境下で社長になった橋本がまず第1に考えたのは、会社を潰さずに継続させること。第2に後継者を育てることだったという。

「同族経営は会社のDNAとして馴染めない。会社は後継者作りのプロセスで企業価値を高めていく。それが社長の役割であり使命だ」と、橋本は心に刻んだ。

橋本がなぜ社長に抜擢されたのか、なぜ非同族会社になったのかについて、橋本は当時を振り返る。

「初代社長は匠の技術を持った根っからの職人でした。高度成長の追い風を受けて急成長を遂げたのはいいのですが、事業欲も大変旺盛で他の仕事に手を出し過ぎてしまい、ついに昭和50年に退陣に追い込まれたんです」

よくある話ではあるが、同社にとって幸運だったのは2代目となる中興の祖の登場だ。

「2代目は私と同じ文系社長ですが、他社からエグゼクティブとして迎えられた人で、創業者とは打って変わって堅実な経営者でした。16年間社長を務めてから私にバトンタッチすると、会社からは完全に身を引いてしまった。なぜ、私を抜擢したのかといえば、恐らく(経営に対する考え方が)似ているからでしょう」

橋本は多くを語らないが、2代目社長と似ているのは経営理念だけではない。2代目社長が橋本の仕事に取り組む姿勢に「私心のない」凜とした潔癖さを感じ、深く信頼したのではなかったか。

「2代目社長の時代から同族会社ではなくなったわけです。ただ、非同族であるが故に同族とは違う強みもありますし、弱みもあります。当社は同じ中小企業の中でも大分、様子の違う会社だなと思っています」

経理担当として入社した橋本は、子供の頃から育んでいたモノづくりに対する愛着が、入社してわずか3年にして専門の経理を投げうって研磨加工の現場を志願することになった。

文系社長の「モノづくり人生」の始まりである。(敬称略)

掲載日:2006年11月20日