衰えぬ開発者魂

渡邉慧(オプトロン) 第1回「技術開発の旅路」

渡邉慧社長 渡邉慧社長
渡邉慧社長

転職遍歴

オプトロンの社長、渡邉慧の転職に次ぐ転職から起業までの道程は、言ってみれば「技術開発の旅路」そのものだった。そして、今年8月に73歳になる天才肌の渡邉の開発者魂は、今でも衰えることを知らない。

渡邉は中学、高校時代は、ラジオ少年で、真空管式のラジオつくりに熱中していた。生まれ故郷の北海道函館市で高校生活を送っていた渡邉は、静岡大学工学部の電気工学科に進学する。静岡大は日本のテレビ技術発祥の地として知られていたのである。

だが、首尾よく大学は出たものの、就職先として最も身近にあったはずの弱電メーカーへの入社の夢は、ひょんなことから渡邉の掌中からすり抜けてしまう。渡邉の転職遍歴の始まりである。原因は大学の実務教科の一つ、工場実習にあった。

実習先は愛知県刈谷市にあったトヨタ車体の刈谷工場だった。

実習に行ったところ、入社を誘われてしまう。当時の社会は高度成長期の前夜といった雰囲気が国民の間に漲っていた。憧れの的だったマイカーを持つ夢も「国民車構想」が打ち出され正夢となる日が近づき、ようやくモータリゼーションが幕を開けようとしていた時代のことである。工場の相次ぐ新設に取り組んでいたトヨタ車体にとっても優秀な学生だった渡邉のような人材は、喉から手が出るほど欲しかったに違いない。しかも電気の大卒技術者は渡邉しかいなかった。

他社の就職試験を受けさせてもらえなかったため、止む無くトヨタ車体に就職した渡邉は大学の就職担当の教授に「1年経ったら辞めます」と宣言する。「相当怒られましたよ」と当時を振り返る渡邉には、弱電の技術者になる夢が忘れられなかったのである。渡邉は公約通り1年と1カ月であっさり辞表を提出してしまう。

「あの1年間が技術者として一番勉強になりましたね。いろんな仕事をやらせてもらいましたから。」

渡邉がトヨタ車体で手掛けた大きな仕事とは社内で工事番号「7B」と呼ばれた大型変電所の建設。カンバン方式で知られるトヨタ生産方式を、当時は、まだコンピュータがなかったため、電話交換機のリレー(継電器)を利用して実現する技術だ。

「なぜ、辞めるんだ」と言われながらも渡邉は「7B」が完成するのに合わせて1年と1ヶ月で同社を辞めた。

山武そして日本IBMへ

渡邉が再就職先に選んだのは、山武ハネウエル(現山武)だった。しかも、誰かに誘われたわけでもなかった。技術者を中途採用の募集をしていることを知ったから山武に応募しただけのことである。若い渡邉には「何でも学んでやろう」との技術者のチャレンジ精神のようなものが息づいていたのである

山武での配属先はマイクロスイッチ事業部。仕事は渡邉の好きなリレーや、マイクロスイッチを応用した製品の開発である。

渡邉がこの会社に籍を置いたのもわずか4年のこと。今度は日本IBMのSE(システムエンジニア)だった実兄から日本IBM入りを熱心に誘われる。

「お前に向く仕事があるよ」

試験を受け、合格はしたが一旦は入社を断った。再度入社することにしたのは、渡邉の技術者としての本能をくすぐるいかにも先進的な話だった。それは当時、横浜の大黒町に設計部と実験部のあった日産自動車から日本IBMに寄せられた夢のような画期的な研究開発だった。日産自動車が全盛を誇った川又克二社長時代のことである。(敬称略)

掲載日:2007年3月27日