闘いつづける経営者たち
「手塚 加津子」昭和電気鋳鋼株式会社(第2回)
2001年に父で2代目の天野和雄社長が死去したあと、手塚加津子現社長は「オーナー」として定期的に経営会議に参加するようになる。だが、経営の中身が見えないもどかしさを感じて「お客さまのような状態だった」(手塚社長)。2004年に父の友人が新社長に就くのを機に、手塚現社長はより会社の状況をつかもうと総務部長として入社することになった。「炉の火を落としたくない」(手塚社長)一心だった。
それでも、社員の中には「自宅のある東京から高崎に毎日通えるのか」といった疑いの目もあった。最古参の社員は振り返る。中学を卒業後に入社した井田豊製造部長は同社一筋55年の70歳。手塚社長の祖父にあたる創業者、父で元社長の天野氏と共に会社の浮沈を見てきた井田部長は「手塚(現)社長の決断の背景には大変な思いがあったはず。気持ちよく迎えたかった」と寄り添う。一方で社内には「オーナーが来て何ができるのか」と温度差があった。
トイレ改修から
手塚社長も入社当初は「見えないバリアーで取り残された感じがした」と振り返る。まず、始めたことは社員130人の顔と名前を覚えることだった。毎日、工場を回り問題はないかと自問自答しながら各現場の社員に声をかけた。今日話したのは誰で、どんな考えを持っているかをメモ帳に残した。手塚社長は「私自身がモノづくりできるわけでない。社員みんなが意欲を持って仕事ができる環境をつくりたい」と考えた。「観察して感じて、考えることの大切さを学んだ」という手塚社長。「作業着のシャツが汗を吸わない」、「トイレがきれいじゃない」。社員の声に耳を傾けてトイレを改修したこともある。井田部長は「毎日、あのにこやかな笑顔を見ていると『皆で支えていこう』という気持ちが芽生えてきた」と社内の空気も変わりつつあった。
リーマン契機に風土改革
入社から2年目で専務に就き、3年目の2007年に社長に就任した。毎日の現場訪問と合わせて他社の協力を得て工場見学にも行った。「当社は素晴らしい技術を持っているが、会社全体が明るく一つの方向に向かっていると思えなかった」と手塚社長は話す。そこで、他社の活動を参考にしながら整理整頓やあいさつ、生産現場の改善活動に力を入れた。
「企業風土を変えるには仲間の存在と外部の後押し、それに全員で取り組むことが大切だ」と手塚社長。次世代を担う40歳前後の社員数人を事務局にして、企業体質の改善を理念に掲げる外部コンサルタントとも契約し5S(整理、整頓、清掃、清潔、しつけ)活動に乗り出した。
職人のプライドを持つ一部の社員の理解を得るのに時間はかかった。ちょうどその頃リーマンショックに襲われた。受注は3分の1に減った。工場の稼働時間は減り、必然と5S活動に費やす時間が生まれた。幸か不幸か全員でスタートを切ることができた。
雇用調整助成金を活用しながらもリストラはしなかった。5S活動を進めた結果、不良品の発生率は1%台に半減したという。さらに2010年には品質管理の国際認証規格「ISO9001」を、2011年には環境マネジメントに関する国際規格「ISO14001」も取得した。手塚社長は「究極の目的は会社の風土改革であり、それに伴う業績改善だ」と強調する。一連の活動で在庫が減り、備品の重複発注もなくなった。リーマン後の中国など新興国経済の回復で業績はV字回復。苦しいときの地道な活動が現場の見える化につながり、生産性の向上へと好循環を生み出した。
「ここがチャンス」とばかり、手塚社長は国内設備のテコ入れに着手した。
プロフィール
手塚 加津子 (てづか かづこ)
1955年東京都大田区生まれ。大学卒業後、母校の私立中等科・高等科で講師として教える。結婚後は専業主婦となり、3人の子どもの子育てに奔走。2001年父で2代目社長の天野和雄氏の死去をきっかけに、2004年総務部長として入社。2007年代表取締役社長に就任、現在に至る。
企業データ
- 企業名
- 昭和電気鋳鋼株式会社
- Webサイト
- 資本金
- 1億円
- 所在地
- 群馬県高崎市倉賀野町3250
- 事業内容
- 製造業(建設機械や鉄道車両、エレベーター用の鋳鋼製品)
掲載日:2014年4月1日