明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「根津嘉一郎」鉄道王国を築き上げた甲州の荒くれ(第5回)
他人に使われたことない人生
嘉一郎は周囲の者たちに「自分は他人に使われたことがない」と話した ことがある。多くの実業家は丁稚からたたき上げ、功労を積み、出世街道を登りつめるものだ。だからたいていは他人に使われ、辛酸を嘗め、苦い経験を持っている。しかし、嘉一郎の場合は異なる。生涯一匹狼を通し、人の下僚になり、使われた経験や人の恩顧を被った経験を持たなかった。その分だけ他人への態度は傲慢不遜で、眼中に人なしの人生だった。言葉も乱暴で、誰に対しても潤色のない言葉を吐いた。金持ちケンカせず——ということがあるけれど、嘉一郎はあえてケンカをした。そのために友人も少なかった。郷里の先輩若尾逸平から株の売買を教えられ、おりからの戦争景気で財をなし、以後はベンチャーとして企業を買収し、「ぼろがいいちろう」などと陰口をたたかれながら「鉄道王国」を築いた。しかし、鉄道以外では敵をつくり、惨敗している。
嘉一郎は英雄型の人間で、決して君子型ではなかった。数少ない友人のひとり松永安左エ門は根津嘉一郎の人となりを、次のように書いている。すなわち、どこまでも頑張る負けじ魂というものは驚嘆に値する。彼が成功したのは時勢というのもあろう。ただ、時勢がいくら味方しても、頑張りがなければ大成はできない。よい例が、第一次世界大戦でもうけた船成金の連中だ。彼らは時勢に乗り、巨利を博した。しかし、最後まで実業界に残ったのはごくわずかだ。これは時勢のおかげばかりではいかぬ適例であり、根津翁のごとき頑張りが加わって初めて大成すべきことを如実に物語るものだ——と。しかし、同時に嘉一郎は富国生命の小林中、日清製粉の正田貞一郎、アサヒビールの山本為三郎など多くの名経営者を育てている。強烈な個性を持つ嘉一郎に反発を覚えながらも、最後までついていった人びとだ。嘉一郎が逝くのは昭和15年のことで享年80歳であった。
好対照な「嘉一郎」親子
嘉一郎没後、事業は長男(幼名藤太郎、後に嘉一郎を襲名)が引き継ぐ。昭和11年に東大経済学部を卒業し、東武鉄道に入った二代目嘉一郎は、父とは違って、温厚実直な人物であった。宮島清治郎や正田貞一郎を後見役として、わずか27歳で東武鉄道社長に就任するのは昭和16年のこと だ。以来、平成6年まで約53年間の長きにわたり社長を務め、実業界の最長不倒記録を誇った。在任中、二代目嘉一郎は東武百貨店など、東武クループの多角化を推進した。戦災を受けた鉄道の復興を成し遂げるとともに、百貨店や不動産、レジャーなど、東武グループの多角化を進めた。父の教えである「質実剛健」を守り、バブル期にも余計な事業には手を出さず、鉄道事業中心の経営を忘れなかった。酒もゴルフもやらず、彼が情熱を燃やしたのは戦災で焼失した根津美術館の再建であった。楽しみは絵画鑑賞であり、館長を務めた根津美術館に出かけるのが何よりの楽しみだったという物静かな人物だった。オーナー経営者にありがちなワンマンではなく、父嘉一郎と違って 社員に対して怒声を上げて叱ったりすることもなかった。父嘉一郎は英雄型の経営者であるとするなら、二代目は君主型である。それにしては好対照な親子ではある。(完)