「根津嘉一郎」鉄道王国を築き上げた甲州の荒くれ(第4回)
美術愛好家としての嘉一郎
美術品収集家としても、嘉一郎は有名だった。カネに糸目をつけず、ともかく超一流の美術品を集めに集めた。その蒐集品による美術館の設立は昭和15年のことで、根津美術館は、創立者嘉一郎の旧邸で美術品とともに寄付したものだ。以前は、荒野原であったところを、嘉一郎が明治39年にこの地を求めてから5年の歳月を費やし造園した庭園は有名で千利休が茶庭の極意として示した「樫の葉の紅葉ぬからに散りつもる奥山寺の道の悲しき」の言葉そのままの、自然味の深い庭園である。数ある美術品のなかでも、茶の湯の道具と仏教美術はことに内容の豊かなものとして知られ、中国商周時代の青銅器も世界的に著名な蔵品である。嘉一郎は自らを「青山」と号し、茶の湯にいそしむようになったのは、明治42年に渡米したことが契機で、齢50を迎えた頃であったといわれる。茶事を行うとともにその道具の収集にも心を傾けたことはいうまでもない。
伝牧谿筆の漁村夕照図など宋元の絵画や墨跡、青磁竹ノ子花生や大内筒 の名で知られる青磁筒花生、永正銘のある古蘆屋松梅文真形霰釜、松屋肩衝茶入、黄瀬戸宝珠香合、柴田井戸や蓑虫の銘をもつ高麗茶碗など、その優品は枚挙にいとまがない。仏教美術も内容の豊かなことで知られ、金剛界八十一尊大曼荼羅図や、鎌倉から南北朝、室町時代の中世垂迹画の頂点にある那智瀧図などの名品が多く集められている。また、青銅器は茶の湯の道具とは異なった感覚の堂々とした風格をもつ工芸品で、嘉一郎の美の世界の広さを物語るものだ。昭和20年の戦災で展示室や茶室など、その大部分を焼失してしまったが、昭和29年に二代目嘉一郎の手で美術館本館が再建され、39年には増築がおこなわれ、さらに平成2年には創立50周年記念事業として、増改築された。蒐集品はいずれも超一流の逸品ばかりだが、さすが嘉一郎の手によるものだけに味わい深い庭園だ。
美術品をもって民間外交
三尾邦三は美術蒐集家としての嘉一郎を「南米に参りましたときも、富豪の根津というよりも、むしろ日本の美術王という方が世界に知られていた」と語っている。嘉一郎が中国天竜山石仏の頭部を42個蒐集したとき、そのうち数個をヨーロッパの美術館に寄贈したことがある。そのいきさつを嘉一郎は「この石仏は大正7年、関野博士の決死的な踏査によって初めて世に出た大仏蹟である。私のところにある仏首は、この秘境から発見されたもので、昭和3年頃、大阪の中山商会の手に入って、アメリカに売られようとしていたのを、貴重品が海外に流失するのは残念だと思い、そっくり買い取って、爾来、家に収蔵したのである。しかし、私は国際親善のひとつとして、貴重な美術品を役立てることも、あながち意味のないことではないと考え贈呈した次第である」(『世渡り体験談』)と語っている。美術品の寄贈を受けたドイツとベルギー政府は嘉一郎に勲章を与えている。
それらの美術品もまた負けず嫌いの嘉一郎が三井や三菱あるいは馬越恭平、藤原銀次郎ら「商売敵」の鼻を明かすため、必死で蒐集したものだ。嘉一郎が催した「熱海会」は有名である。嘉一郎は毎年2回、熱海の旅館に書画骨董商や友人らを集め、各自持ち寄りの品々の入札会を催していた。しかし、古美術商たちの評判は散々だったようで、例えば「根津さんの出品はいずれも当世向きで、高く売れるが、要するに素人の旦那芸。集まるのは屑ばっかりだ」などと陰口をたたかれもした。そんな噂を聞いた茶道を通じての友人小林一三が忠告の意味を込め根津に伝えたところ、嘉一郎は平然と笑い飛ばしたという。いかにも嘉一郎らしい逸話のひとつだが、後に嘉一郎自身が周囲に語ったところによれば「熱海会」というのは死蔵されている美術品を発掘し、世の光りをあてるのが目的であったという。 むしろ古美術商よりも嘉一郎の方が確かな目を持っていたのかも知れぬ。(つづく)