明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「根津嘉一郎」鉄道王国を築き上げた甲州の荒くれ(第2回)
東武鉄道の再建に取り組む
すべてが順調であったわけではない。手持ち資金は限られ、しかも株は初めての経験である。多くの借金を抱え苦境に立たされたこともあった。しかし、これを乗り切り、嘉一郎はその資産を固めた。嘉一郎は若尾と連合を組み、この間にも東京電灯株を、徐々に買い占めていく。若尾・根津連合(往事の人たちは甲州財閥連合と呼ぶ)は、明治29年についに東京電灯の経営権を手中に収める。経営陣も刷新され、若尾の番頭格で、当時第十国立銀行頭取を務めていた佐竹作太郎が社長に就任、以後、40年近く社長を務める。他方、東京電灯の買い占めで参謀格として活躍した嘉一郎は監査役に就任し、ここで初めて電力業界への足がかりを得る。しかし、甲州財閥に対する風当たりは強かった。というのも嘉一郎たちの行動が「乗っ取り」とみなされたからだ。いまで言えばM&Aあるいは企業買収なのだが、荒々しいやり方は好まれなかったのである。
このころになると、嘉一郎は政治に関心を失い、事業欲に燃えるようになる。若尾の教えを忠実に守り、鉄道事業に乗り出す。嘉一郎の回顧録『世渡りの体験談』によれば「自ら渾身の力を尽くした」と言っている東武鉄道との関わりは「たしか明治32年ごろから営業を開始した。そして処女配当は7分2厘であったが、その後6分になり、5分5厘となり、ついに無配当になり、会社騒動が惹起したのである」「このような難破しかけた会社の社長を引き受けた」ことから始まると述べている。要するに東京電灯での経営再建の手腕を見込まれての社長の就任だった。東京電灯で培った経営再建のノウハウを活かし、経費削減とコストの低減に務め、徹底して冗費の削減を行った。他方では遅滞していた取引先への支払いを優先させ、信用醸成を図った。こうして明治38年には復配を実現し、根津は第一次大戦の影響で着工が遅れていた「日光線」を企図するのであった。
社内外の反対を制し日光線を開通
都心から日光まで電車を走らせるのは嘉一郎の夢であった。しかし、地 元日光の人たちは反対であった。日帰りされたのでは旅館業が閑古鳥がなくと反対したのだ。反対派の急先鋒は東照宮宮司の額賀大直だった。その額賀を相手に「ご意見はごもっとも。しかしあなたは同じ人数を考えているからで、私が鉄道を引く以上は2倍、3倍のお客を持ってきてみせます」と説いた。そればかりか、社内からも反対の声が上がった。理由は「建設資金の調達」問題だった。その反対論を制して、着工にこぎ着けることができたのは日露戦争後の株式ブームで得た潤沢の資金を持っていたからだ。はじめ蒸気機関車だった東武鉄道は大正12年に浅草-西新井間を電化、こうして日光線の基礎を作るのであった。往事、日光を訪れる参拝客は30万余りだった。果たせるかな、額賀宮司を相手に豪語したように浅草-日光線が開通をしてみると、参拝客は100万に増えたのである。
嘉一郎が手がけた鉄道事業はもとより東武鉄道だけではない。明治から大正にかけては鉄道会社が乱立していた。そのとりまとめに動いたのが嘉一郎だ。都電の前身である「東京鉄道」が、明治15年にまず新橋-日本橋間に鉄道馬車を開通。鉄道馬車が電車となるのは明治36年のことだ。これより1ヶ月遅れで「東京市街鉄道」が有楽町-神田橋間に開通し、同じ年には郵船会社系の「東京電気鉄道」が外壕線を申請するなど、首都には三つの鉄道会社が乱立していた。これでは二重投資になる。これを統合すれば経費節減になり、乗客の利便にかなう。嘉一郎は統合に動き、ときの東京府知事や財界の重鎮渋澤栄一らに働きかけ、ついに三社統合を実現し、新たに発足した東京鉄道の取締役に就任するのは明治38年のことであった。以後、嘉一郎が経営に関与した鉄道会社は全国24社におよび、経営再建に手腕を発揮するなど鉄道王の名に恥じず、大きな仕事をしている。(つづく)