明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「根津嘉一郎」鉄道王国を築き上げた甲州の荒くれ(第1回)

明治人のキーワードを、事業の面から上げれば「鉄道と電力」だ。関西で鉄道事業を起こし、後に電力業界に転じた小林一三も、博多で電気軌道会社を創設し、盟友福沢桃助に請われて、電力事業を手がけるようになる 松永安左エ門もみな「鉄道と電力」に生涯を捧げた経済人だ。事業だからもちろんカネもうけは大切だ。しかし、明治の経済人はカネもうけよりも、人びとのためになること、社会奉仕の精神を大切だと考えた。すなわち、公益性に着目し、事業に取り組み、後世に遺産を残した。ここでの主人公根津嘉一郎も「鉄道と電力」に生涯を捧げた人物だ。根津嘉一郎は茶人としても知られ、茶道を通じた松永安左エ門との淡い交友は有名だ。茶人としての遺産のひとつに根津美術館がある。蔵品の基幹となっているのは、創立者根津の収集になる東洋古美術品で、絵画、書跡、彫刻、陶磁、漆芸、金工、木竹工、染織、そして考古と多岐にわたり、それぞれの分野に数々の名品が含まれ、それは見事なコレクションだ。公益事業の実現を夢み、そして文化人としても超一流というのが明治人のもうひとつのキーワードである。

東京遊学から地方政治家に転身

人びとは根津嘉一郎を「鉄道王」と呼んだ。現在の東武鉄道を見事に再建した立て役者であるからだ。嘉一郎は、東京電灯や東武鉄道などのほか、幾つもの事業を手がけ、甲州財閥の当主と呼ばれた。甲斐東山梨に万延元年(1860)年に生まれ、幼名を栄次朗という。生家は「油屋」の屋号で看板商品の油のほか雑穀などを扱う商家であり、父嘉市郎は村役人を務めるなど、村では人望家として知られた。栄次朗は次男坊だが、兄一秀が病弱であったため、嘉市郎は栄次朗に期待をかけ育てた。このため東京に出て、中央財界で活躍するまでは、少し道草をくっている。若き時分の根津は玉木懿夫著『根津翁伝』によれば「早くも紅灯緑酒を覚え、父をして家産を放蕩することなきや」を、心配したほどだったという。家業を手伝いながら、根津は政治に関心を持ち、村会議員や県会議員を務め、いっぱしの地方政治家としてならしたものだった。

さて、少年時代の嘉一郎は寺子屋の師匠が留守にしているとき、代理を 務めたというほどだから勉強はできた方だろう。嘉一郎は江戸遊学を、父に申し出た。しかし、長男は病弱で、その上に嘉一郎は利発で商才があった。そうであってみれば「油屋」の跡取りと考えるのは親として当然だ。願いは許されず、悶々としながらも、商売に励む。それでも向学の念絶ちがたく、出奔する格好で東京に出て、軍人として大成することを夢み、陸軍士官学校への入学を目指す。明治13年、嘉一郎21歳のときだ。しかし、士官学校は年齢制限があった。やむなく上野池之端の恩知塾に入る。恩知塾で2年ほど学んだ。しかし、伯父の嘉平に居場所を突き止められ、学業途中で故郷に連れ戻される。地方政治に関心を持ち、前述の村会議員を経て県会議員になるのは帰郷してからのことだ。おりから全国規模で自由民権運動がわき起こり、政党政治の波は嘉一郎の故郷にも押し寄せていた。

村長としての行政手腕と経営能力

もちろん、父親は反対した。今も昔も、政治にカネがかかる。そんなことをやっていれば家が傾く。父嘉市郎は心配した。県議会では官憲の政治への干渉を激しく論難し、予算審議にあたっては、土木業者と県当局との癒着を暴露するなど大活躍した。県当局を追いつめ、当初予算を三分の一に減額させ、それでも工事は初期の目的を達成することができたと往事の嘉一郎は胸を張っている。県会議員は一期で辞め、今度は村長に立候補して当選を果たす。地方政府の首長に問われるのは経営手腕だ。村長時代の事績として評伝作家の多くは「笛吹川氾濫対策」を取り上げている。ある年のこと、豪雨が続き笛吹川が氾濫した。放置すれば堤防は決壊し、田畑は全滅する。嘉一郎は村の神木を伐採し、これを防水に充てることを決断した。もちろん、後でとがめを受けることを覚悟しての決断であった。即時の判断が村を救い、その果敢な資質を人びとは称賛したと持ち上げている。

しかし、このとき嘉一郎の心は故郷にはなかった。転機を作ったのは、若尾逸平との邂逅であった。若尾は郷里の先輩で、江戸での奉公や郷里での行商など辛苦を重ね、横浜開港を機に生糸や綿製品など貿易を手がけ、とくに貨幣乱発による価格下落に着目し、生糸を買い占め巨利を博し、大地主となった人物だ。その若尾が中央政界で覇を唱えようと野望に燃える嘉一郎を知り、株を薦め、こういったものだった。まず、カネをつくらねばならぬ、将来を見るにこれからは「乗り物」と「灯り」だ、とヒントを与える。乗り物とは「電気軌道」のことであり、「灯り」とは電力のことだ。投資をするなら、この二つがねらい目だと若尾は教えたのである。こうして株式の売買を始め、まず買い始めたのが東京電灯株だった。おりから東京電灯は漏電騒ぎと内紛で株価は低迷していた。その間にも嘉一郎は若尾に薦められた東京電灯株を少しずつ買い占めていくのだった。(つづく)