闘いつづける経営者たち
「河村勝美」ゼオライト株式会社(第2回)
02.勝負は勝たなければいけない
河村勝美社長の脳腫瘍摘出手術は、2回の全身麻酔を行い8時間にも及ぶ大手術だったが、無事に成功した。
勝美社長は「無事生還できたのは奇跡でした」と振り返る。心配された言語障害や半身のマヒといった後遺症もなかった。なんと勝美社長は手術の7日後には退院するまでに回復した。
しかし退院はしたものの、手術跡の痛みは続いた。特に1年目の冬は寒さに頭がうずいた。せっかく夫である河村恭輔会長が用意してくれたベッドにもなじめなかった。外出したくない。他人とも顔を合わせたくないとふさぎ込む日々が続いた。
「社長就任の最初の1年間は経営者とは名ばかりのものでした。しかし『何とか夫を支えたい。会社と社員を守らなければいけない』の一心で痛みにも耐えました」(勝美社長)。
一度死んだ気持ちで
勝美社長はリハビリを続けながら経営に復帰した。心は落ち込む時もあったが、勝たねばならないと自分に言い聞かせた。勝美という名前は〝勝負に勝つ〟ことを願って親がつけてくれた名前だ。子供の頃から負けず嫌いだった。苦しいときこそそのことを自ら言い聞かせた。勝美さんは、一度死んだ気持ちでがんばったという。
再び日本創造教育研究所が主催するマネジメント研修を受講した。半年の研修でたくさんの経営者仲間と交流を続けた。この経験で気持ちが穏やかになったと話す。
「私は、勝負は勝たなければいけないと思っています。病気との闘いもそう。じつは離婚も経験しております。自分らしい人生を送りたいと常々思っておりますの」
勝美社長の言葉に力がこもる。
勝美さんは、レモンやデコポンなどかんきつ類の栽培で有名な広島県尾道市(旧瀬戸田町)生口島で生まれ育ち、21歳の頃から2年間、旧瀬戸田町役場に勤務した。その頃親の薦めで見合い結婚した。嫁ぎ先は島一番の農家で、「収穫したかんきつ作物を大きなトラックで運び出すくらいの豪農」(勝美社長)だった。
しかし勝美さんはあまり幸せではなかったという。「夫は三男坊。夫婦でどんなに働いても本家の長兄に持って行かれるばかりでした」(同)。農園の経営者である長兄からは給料が支払われない月もあり苦しい生活が続いた。そんな折、長兄が大阪で造船業に手を出し失敗。一族で多額の借金を抱えることとなった。このことをきっかけに勝美さんは離婚を決意。島を離れ福岡市内に住む姉を頼った。
運命の出会い
身ひとつで福岡に出てきた勝美さん。しかし姉夫婦の家にいつまでも居候するわけにも行かず、医療事務員を募集していた福岡市南区の個人病院で働くことになった。医療事務の仕事を現場で学びながら住み込みで働いた。
「看護はできませんが、急患の人を一晩寝ないで付き添ったこともありました。早朝、病院の庭の木々や草花の手入れをするのが何よりのリフレッシュでした」
そんな生活が8年あまり続いた。そして勝美さんは運命の出会いをすることとなる。
1982年当時、その病院に、院長の友人である結婚相談所のオーナーが毎月定期検診に来ていた。院長は勝美さんに良縁をとそのオーナーに頼んでいた。
一方、同じ頃ある小さな水処理プラント企業の社長が、独身社員のためにその結婚相談所に釣書を届けていた。運命のおもしろさは、その時、その独身社員たちが少しだけ気を利かしたことだ。3年前に妻を病気でなくした独身社長、河村恭輔氏本人の釣書も加えて届けたことだった。
プロフィール
河村 勝美 (かわむら かつみ)
1943年広島県尾道市(旧瀬戸田町)生まれ。広島県立瀬戸田高校卒業後、旧瀬戸田町役場に就職。その後個人病院の医療事務などを経験、ゼオライトの河村恭輔現会長と結婚。恭輔氏と二人三脚でゼオライト「第2の創業」に携わる。2013年、東京営業所を支店に昇格、さらなる事業拡大を目指す。
企業データ
- 企業名
- ゼオライト株式会社
- Webサイト
- 資本金
- 9000万円
- 所在地
- 福岡県福岡市博多区那珂5-1-11
- 事業内容
- 水処理プラントの開発・販売・メンテナンス事業、浄水器・宅配水販売事業
- 売上高
- 28億円
掲載日:2014年4月23日