明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「小平浪平」国産自主技術にこだわり続けた男(第4回)

昭和電工のアンモニア計画に協力

鮎川義介は企業再生を見事にやってのけた。不良債権の山だった久原財閥を、日産コンツェルンとしてよみがえらせたのである。第一次世界大戦の恩恵で二桁成長を遂げ、世界の一等国入りした日本。それが急落したのだ。必要なのはいまでいう構造改革だ。過剰生産の余力のはけ口を、鮎川は満州に求め、満州を担保にすることで信用創造を図り、市場から資金をふんだんに調達し、余勢を駆ってコンツェルン形成に動いた。それを小平は唖然として見守った。日立製作所が日産コンツェルンの傘下に入ったからといっても、小平浪平の立場が変わったわけでない。鮎川義介は日立製作所の会長に就任し、小平は晴れて社長の座につくのである。資金的なゆとりもでき、日立製作所は再び積極策に出る。まず本拠地茨城の日立に10万坪の工場用地を取得し、事業を拡張していく。

小平が着目したのは発電部門だった。大型水力発電所計画にともなう長距離送電計画が相次ぎ発表されたからだ。小平は先行投資を意欲的に進めたのである。しかし、経済は芳しくなかった。なお昭和恐慌が続いていたのだ。そこは政商鮎川とは異なる。製造業の内実は地味なのである。余剰電力のもとでは発電機は売れない。10万坪もの広大な工業用地を取得し、設備投資をしてみたものの、世間は不況の暗雲に覆われている。しかし、明治のベンチャーは考えた。ある日、小平は昭和電工の森矗昶を訪ねた。科学的方法で生産する硫安は膨大な電力を必要とすると聞いたからだ。おりから森矗昶は、電力を利用して硫安を生産する計画を構想していた。森 矗昶の構想は雄大だった。水を電気分解して水素と窒素に化合させ、アンモニアを作る反応漕2500基をつなげる壮大なプラントを構想していたのである。誰が考えても、ホラ話に聞こえたに違いない。

日立の軍需工場化

実際、そんなことができるのか! 創業以来の幹部たちはひるんだ。しかし、小平は森矗昶の話を聞き、やる気になった。実は、その決断が日立製作所を救った。日産コンツェルンの総師・鮎川義介は憂国の人士であり、大東亜共栄圏の実現を本気で信じていた男である。鮎川は日立の満州進出を促したが、小平は動かなかった。しかし、時代は動く。昭和12年7月、日中間に全面戦争が勃発し、日本は総動員体制に入る。小平には選択の余地はなかった。電気機器メーカーは軍需と密接なつながりがある。日立製作所が戦時体制に引き込まれていくのは必然だった。扇風機、冷蔵庫、井戸ポンプ、エレベータなど民需製品は工場から姿を消し、日立製作所は軍需工場の色彩を帯び、小平が構想した「総合家電メーカー」の夢はつえゆく。小平浪平は時代の要請に応え、軍と国が求める軍需産業化に全面協力していくのだった。しかし、現場で指揮をとったのは倉田主税だった。

明治22年、福岡で生まれた倉田は、仙台高等工業(現東北大学)を卒業し、久原鉱業に入社し、大正9年に日立製作所独立とともに移籍し、小平と苦楽をともにしてきた男である。工場は軍事管制のもとにある。愚直な小平では軍と衝突する恐れがあった。何しろ士官学校を出たばっかりの若い将校が軍刀を引きつづり、工場内を闊歩し、工場幹部を顎でこき使うのである。当然ながら工場の各所で諍いが起こった。小平が正面に立てば、全面衝突になる。何せ、軍のいうことはめちゃくちゃなのだから......。そこで電線部長をしていた倉田が軍納部長に就任して責任を一身に背負い、軍当局との折衝にあたった。太平洋戦争が勃発するにおよび、会社そのものが軍需工場化し、従業員の多くも徴兵され、工場から姿を消していく。そればかりか、幾多の空襲を受け、工場は灰燼にきす。小平浪平はきまじめな技術者である。事態をなすすべもなく見守るだけだった。

遊び好きで知られた学生時代

やがて終戦を迎える。日本本土に上陸した占領軍は、財閥解体に乗り出す。日産コンツェルンも解体された。続いて占領軍は戦争協力者をかり出し、公職から追放する。日立製作所は軍需工場の役割を担ってきたという理由で、小平以下15名の幹部が公職追放の指名を受け、会社から去っていった。明治・大正・昭和にかけ、40年の歳月をひたすら電気産業の自立のためつくしてきた小平浪平。しかし、占領軍には抗うことはできない。以後、小平は一切の公職から身を引く。心残りはあった。それでも後任者に40年の歳月を苦楽をともにしてきた倉田主税が選任されたことはひとつの救いであった。社長就任の指名を受けたとき、小平邸を訪ねてきた倉田に小平は「事業の繁栄を期すためには、寸時も協和一致の精神を忘れないで欲しい」とだけ言っている。

小平は学生時代に『晃南日記』を書き残している。そこには、青年らしい大望を抱きつつも、「一畝の田、一歩の林、故山に帰臥し父老と相親しむは余が年来の宿望なりき。いまは早其心なきなり、否無きに非ず、其望を達する前に、如何にして大々的事業を為さむとよくする念強くして、遂に故山に帰るの期を想ふに及ばざるなり」と呻吟する姿があった。小平は栃木県都郡の裕福な家庭に生まれている。しかし、彼が第一高等学校に入学する直前、父惣八が事業に失敗し、家運が傾き、第一高等学校に在学中だった兄儀平は退学を余儀なくされる。兄儀平が故郷に帰り、銀行に勤めるのと入れ替わりに、浪平は一高に入学する。浪平はテニスに興じ、ボートに野球、旅行という具合で、決して勉強熱心な学生ではなかった。そのため、東大工学部に進学してから、写真に凝ったりして、落第している。そんなことがあってか、一高以来書き付けてきた『晃南日記』を絶筆している。

小平は社会人になり、経験を通じて「技術の自立」を考え、それを自ら創設した日立製作所という舞台で実践した。それを見事になし得た。公職追放を受けて以来、小平は文字通り謹慎の日々を送り、好きなゴルフも絶った。遊び好きで知られた学生時代を知る友人たちには驚きであった。昭和26年6月、小平は公職追放解除を受ける。久しぶりに訪ねた本社工場で出迎えた倉田主税は「社長に復帰して欲しい」と懇請した。しかし、それを柔らかく断り、ただ相談役だけは引き受けた。小平は倉田の案内で工場を見て回った。敗戦の痛手から、工場はすっかり回復していた。倉田君、よくやったね——と、小平は目を細め、倉田の手を握るのだった。そのとき、小平は「以和為貴」と染め抜いた手ぬぐいを全社員に配った。その年の10月、明治のベンチャーは78歳の生涯に幕を閉じた。(完)