明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「小平浪平」国産自主技術にこだわり続けた男(第2回)
部品材料「自給自足」の道
事業で大切なことは優れた人材を集めることだ。小平は人材の確保に心を砕き、人材の養成に情熱を燃やした。小平が「丸太小屋時代」と呼ぶ、日立製作所創業期に入った人間に小平の後任社長を務めた倉田主税ほか、その後の日立製作所を支える優秀な人材が入ってきている。学生たちの間で「日立は自作で発電機を作るらしい」と評判を呼んだ。例えば、秋田政一や池田亮二、森島定一や安川電機の創業者・安川第五郎といった帝大出の技術者たちが入社してきた。昔も今も、若者を惹きつけるのは革新的な企業と経営者だ。他方では中堅技能者を育てる徒弟学校も創設した。鉱山会社の保守・メンテナンスを担う工作機械部門として発足した日立製作所は、こうして新しいスタートを切った。しかしスタート当初から苦難が続いた。日露戦争の反動不況でせっかく自作した製品がさっぱり売れなかったのだ。ついでながら日立マークを小平が創案するのはこの時期のことだ。
創業当初は失敗の連続だった。明治44年に茨城電気から20台受注した変圧器は故障続きだった。失敗を重ねながら、小平は部品材料の自給自足を決断する。日立のマークがついた製品は、どんなことがあっても責任を取ると小平は世間に公言した。それだけの自信がなければ、顧客の信頼を得ることができない。研究の結果、故障の多くは銅線にあることがわかってきた。そこで自給自足は銅線から始めることを決めた。これを担当させたのは腹心の部下倉田主税だった。倉田はいわゆる学卒ではない。幾度も失敗を重ねる。そうしたなか銅線を購入していた古河電気が突如、納入を拒否すると通告してきた。日立が銅の開発を進めているというニュースを聞き、脅かしてきたのだ。倉田たち担当者は焦った。しかし、小平は顔色ひとつ変えず、担当者たちをねぎらった。倉田たちは苦闘の末に三分の粗引銅線を完成させる。こうして日立は自給自足の足がかりを得るのであった。
出火で主力鉱業が灰燼にきす!
古河電気の執拗な揺さぶりにもかかわらず日立と小平は、やっとの思いで銅線生産にこぎつける。小平がここで学んだのは「待つこと」の大切さだ。トップが焦れば、担当部門も焦り出す。担当部門が焦り出せば、ろくな結果にはならないからだ。原料調達から試作品の実験、実験を繰り返し、それを生産ラインにのせる。その間、小平はひたすら待つことに耐えた。待つことは、部下を信頼する証でもある。だから小平は途中で催促がましいことは一度として口にしていない。最初は自給自足が目的だったが、日立銅線の噂は業界に広がり、つや消し銅線の成功と相まって、銅線工場の経営は順調な伸びを示していた。このころ小平は部下の進言を入れて、日本の工場では初めて原価計算という考え方を導入している。電線工場を軌道に乗せると、次ぎに小平は久原鉱業所の機械工作工場・佃島製作所を日立の傘下に組み入れ、本社を東京に定めた。
日立製作所にとって大正初期は、文字通りの飛躍の時期である。大正3年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、景気は上向き、日立製品は爆発的に売れた。外国製品が大戦の影響で途絶えたためだ。しかし、聡明期の日立工場では、遮断機が破裂したり、発電機が壊れたり、原材料の調達が間に合わず、納期の約束が守れなかったり——と、小平自身が客先に出向き、頭を下げることもたびたびだった。こうした経験のなかから出てくるのが「日立製品の保証と信頼確保」という考え方だ。こうして発展を続ける日立製作所ではあったが、大正8年11月に日立の山手工場から出火し、新鋭機器や装置、生産設備が大打撃を受ける。社員は呆然と立ちつくす。工場は発注品で山をなしていた。大戦の影響で日立の注文が殺到していたからだ。小平の手元に詳細な報告が入ってくる。主要工場は灰燼にきし、被害総額は90万円近くに達したというのである。
私は発憤する!諸君も発憤して欲しい
小平は絶望の淵に立たされた。久原に入って以来営々と築き上げた日立製作所。果たして復旧できるかどうか、小平は正直自信を持てなかった。しかし、気を取り直し、小平は現場に出向く。社員は意気消沈している。日立は倒産するのではないかと噂する社員もあった。動揺は幹部社員のなかにも広がっている。その社員を前に小平は決然として言うのである。「諸君、私も途方にくれている。いっそのこと止めようと思わぬではないが、しかし、私は事業の前途に自信を持っている。これまで順調だった、そのお灸なのかもしれない。私は発憤する。諸君も発憤して欲しい」と従業員を励ました。この小平の訓話は従業員に再起の気力を生み出し、以後、小平以下の会社幹部の指揮のもと、全力をあげて復旧に取り組むのであった。大正9年、復興なった日立製作所は久原財閥から分離独立して、株式会社日立製作所と新発足する。(つづく)