明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「小平浪平」国産自主技術にこだわり続けた男(第1回)
明治37年7月のことだ。小平浪平は久しぶりで飯田橋の駅舎に旧友渋澤元治の姿を認めた。渋澤は財界の大御所渋澤栄一の甥で、東大工学部電 気工学科を卒業し、逓信省(後の郵政省、現在の総務省)に勤務する技官だった。小平とは東大工学部の同学の学友でもある。始発駅が飯田橋で、JR中央線がまだ甲武鉄道と呼ばれていたころだ。二人は向かい合って座った。列車は静かに動き出す。二人は屈託なく世間話に興じた。小平は渋澤の顔をみながら思った。この男なら自分の考えを理解してくれそうだと。小平は大学を卒業すると、幾つかの職場を渡り歩き、東京電灯で発電部門の主任技師をしていた。その小平に転職を勧めるものがあった。久原財閥の総師久原房之助だった。いまの職場よりも条件は格段に落ちる。しかし、小平には久原の誘いに魅力を感じていた。返事はまだしていなかった。そこで旧友渋澤の話を聞いてみようと思ったのだ。
掘建小屋からのスタート
小平には熱い夢があった。その夢を渋澤に語った。当時、国力の基礎たる資材のほとんどは外国に依存する状態にあった。工作機械、電気機器などあらゆる生産資材が外国からの輸入品でまかなわれていた。生産現場も外国人技師に差配されていた。すべてが外国の物真似だ。それじゃいかん、と小平は思うのである。この日本を近代国家に脱皮させるには、いつまでも外国の機器と技術に頼っているようではダメだ、そんなことじゃ日本は自立はできない、そう考えていた。その思いを渋澤を相手に一気にはき出した。君は東京電灯で将来が約束されている身分じゃないか、それを捨て、久原のもとに走るのか、渋澤は小平の将来を心配し、久原入りに疑念を示した。渋澤がいうのも、もっともだ。二人は猿橋に旅装を解き、夜を徹して話し合った。小平は渋澤と話しているうち、次第に自分の考えがまとまってきた。その考えはやがて確信に変わっていくのであった。
小平浪平が久原鉱業所日立鉱山に入社するのは明治39年10月のことだ。小平33歳のときだ。もらった辞令には工作課長とある。最終的に久原入りを決めたのは、大学卒業以来の夢である国産モーターの開発を許してくれそうだったからだ。しかし、実際の仕事は鉱山機械の修理だ。小平は大学を卒業すると、久原系の藤田組に入り、電気技師として秋田の鉱山に赴任した。ここで久原房之助と出会った。久原のもとで働くのは二度目だ。だから久原のことはよく理解しているつもりだった。工場とはいっても、そこは掘建小屋みたいなものだ。小平はときが来るのを待ち、辛抱強く鉱山機械の整備にあたった。小平が当主久原を口説き落とし、自ら本懐とする機械機器の生産工場の建設に着手するのは明治43年だ。翌年7月には、いよいよ日立鉱山から分離独立し、久原鉱業所日立製作所の看板を掲げるのであった。ここに日立製作所が産声を上げるのである。
発電所建設の合間にモーター試作
久原に入って以後、工作課長として小平が房之助に要請された本来の仕事は、赤沢鉱山が必要とする電力を確保するため、鉱山近くに流れる里川に400kwの発電所を建設することだった。発電所建設では多くの経験をつんでいる。続いて1000kw級の発電所建設に取りかかり、なれたもので発電所が完成をみるのは明治43年だ。明治39年に房之助が買収した赤沢鉱山は、廃坑寸前の鉱山だった。房之助は目利きである。その廃坑寸前の赤沢鉱山から次々新しい鉱脈が発見され、それにともない保守・メンテナンスを担当する小平工作課長は、鉱石を運搬するコンベヤや製品を港に移す電気軌道などの建設に加え鉱山機械の修理で忙しく働いた。そのかたわら小平は念願の発動機の設計・開発にあたる。こうして自作の5馬力発動機が完成をみる。自信を深めた小平は、房之助に電気機械製造事業の許可を申し出た。これが前述の久原鉱業所日立製作所である。
日立製作所の発足と同時に小平浪平は「所長」の辞令を受けている。日立製作所はなお久原家の個人事業なのである。しかし、企画から運営までを含め、その経営の一切については小平に一任された。第一工場の建設にメドをつけると、砲金工場、鉄板工場、鋳物工場など動力機械の生産に必要な部品工場を次々と建設する。部品を自前で作ろうという意気込みなのである。日本では初めての試みだ。発動機の現状についていえば、電気機器のほとんどは輸入や外国人技術者の指導に頼っていた。ちなみに、この分野でリードしていたのはGEと提携した芝浦製作所(後の東芝)であった。ともかくがむしゃらに開発を続け、1号機「5馬力誘導電動機」が完成を見る。このモーターはその後、50年に渡り日立製作所の電線工場で稼働を続けた。その後創業者の一人である高尾直三郎の手によって動態保 存され、現在は日立の「創業小屋」に展示されている。(つづく)