闘いつづける経営者たち

「鵜殿直子」株式会社ウドノ医機(第3回)

03.重なる逆風を腰を据えたモノづくりでしのぐ

2000年代に入り堅調に受注をこなしてきたウドノ医機。医療用、産業用の滅菌装置を手がけ、産業用へ本格参入後も実績を積み上げ、大手医療用メーカーに装置を納入するまでになった。ただ、決して順風満帆だったわけではない。大きな逆風やダメージを受けながら、それらを乗り越えて現在があるのだ。

北京五輪の余波?

2008年にさまざまな要素が重なり、会社存亡の危機に瀕した。製品の原材料価格が高騰している中で採算性を度外視した受注を続けたことが経営を圧迫した。特にステンレスの高騰が響いた。北京五輪など中国の需要急増により世界のニッケル相場が上昇し、ステンレスの価格も急騰した。当時は廃棄されるようなステンレスさえ、高値で取引されたほどだ。日本で作るステンレス価格が平時の2倍に膨れあがった。これにより製造原価が販売原価を上回る事態となった。

これに対し通常ならば製品価格への転嫁で対応するが、ウドノ医機は顧客への“供給責任”を優先させた。通常は3カ月程度を見積書の有効期限とするが、それ以前に発行した見積書通りの価格で製品を納入した。「ご愛顧いただいている顧客に応える」という前社長の方針を貫いた。当時、経理を担当していた鵜殿直子現社長は日々、経営が逼迫されていった状況を今も鮮明に覚えている。

経営の苦境も社員と一丸になって乗り越えた
滅菌装置の缶体を製作

規制強化が経営を圧迫

また、薬事法の改正も経営を圧迫する要因となった。医療機器の管理がより厳格化され、規制強化が滅菌装置業界にとってコスト負担増になったからだ。滅菌装置は1製品を製品化するごとに約1000万円の申請料負担が生じる。これまでは1シリーズにつき申請は1件でよかったが、同じシリーズの製品でも、装置の間口が違うと個別に申請が必要になった。これらに対応するため機械、設計、製造の図面を起こし直し再申請をこなしていった。

電磁波などの試験で不都合があれば変更、改造し、やり直さなくてはならない。1シリーズには3製品程度あったため、申請費用は3倍に膨れあがった。規制強化により作業が増えれば、会社の組織・人員体制も整備しなければならなかった。それまで人のいらない作業に、営業担当者などを配置転換して対応に取り組んできた。

逆風は重なる。異業種の大手企業が安価な価格で滅菌装置市場に参入してきたのだ。当時はウドノ医機と競合社だけの実質2社だったが、大手ボイラーメーカーが多角化により滅菌装置に新規参入してきた。ボイラーメーカーは自社製ボイラーを使った独自構造の滅菌装置を投入してきた。ウドノ医機の半値の製品もあり、シェアを奪われた。さらに外国メーカーも日本に参入し、従来よりも厳しい事業環境にさらされることになった。

これらの逆風に対し、直子社長は地道に対策を講じた。原材料価格の変動リスクについては、より注意するようになった。購買には3カ月に1回、鋼材会社に値段を確認するようになった。これにより速やかに販売価格に反映できるようにした。

また、業界内の受注合戦に対して価格競争に走らず、腰を据え高品質で顧客が求める製品作りに取り組んだ。これにより顧客の支持を獲得して、既存顧客を維持するだけでなく新規顧客の開拓につながった。安定した機能や耐久性が評価され、一時は他社に食われたシェアも回復していった。

直子社長が経営の励みにしてる「久しぶりにいいモノづくりに携わる人たちの顔を見せてもらいました」という言葉は、この頃に医療機器メーカーの幹部からかけられたものだ。

プロフィール

鵜殿 直子 (うどの なおこ)

1961年生まれ。1983年に国士舘大学を卒業後、八王子市内の旋盤加工企業で1年間アルバイトし、機械加工技術や企業内部統制を学ぶ。1986年にウドノ医機に入社。2年間、製造や営業、メンテナンス、経理などを経験し1996年に専務、2010年に社長に就任。「社員資格取得推進による多能工育成」「見える数値化による業務改善」「それらによって得た利益を社員に還元する」をモットーとする。ビジネスでは「石橋を叩いて渡る」性格であるが、プライベートでは「超短気、せっかち」と自己分析。休日はもっぱら2頭の愛犬との散歩。愛犬たちとGT-Rに乗り、国内巡りをするのが将来の夢とか。

企業データ

企業名
株式会社ウドノ医機
Webサイト
資本金
5,000万円
所在地
東京都八王子市元横山町2-1-9
事業内容
高圧蒸気滅菌装置、酸化エチレンガス滅菌装置などの設計・製造・販売・メンテナンス
売上高
21億1,000万円(2013年8月期)

掲載日:2014年4月18日