闘いつづける経営者たち

「宮沢 俊哉 」株式会社アキュラホーム(第3回)

03.作り手の価値観を押し付けていた—だから当たり前のことを当たり前にやろうと決めた

常識破りに中傷の嵐

修繕の価格明示作戦で成功した宮沢俊哉は86年、新築住宅部門の「すまいの都」を設立し、念願の注文住宅建築に乗り出す。

当時は大手のプレハブ住宅全盛期、公団の高層団地建設、住宅フランチャイズチェーンの台頭など町の工務店は劣勢に追い込まれていた。周囲には「勝ち目はない。やめとけ」と言われたが、宮沢には勝算があった。

修繕の経験から「安くてよいものをつくれば勝てる」と確信していた。

「リフォーム工事でお客さんに伺うと、もう少し安ければ新築にするんだけど・・、という声をよく聞きました。そこから安くて良いものを作ることが大事なんだと感じたんです」

そこで宮沢は、大工出身の強みを生かして大手に負けない品質、心のこもった家づくりに精力を注いだ。

「大手のスケールメリットにはかなわないことは分かっていました。しかしこちらは下請けを使わず自ら施工しますから中間マージンも発生しません。その上で安かろう悪かろうにならないよう自らの経験を生かす工夫をしました」

こうした結果が坪単価21万円の自由設計による注文住宅「M21」として結実する。

しかし坪単価35万〜40万円の時代である。一般的な価格の半額という業界の常識を破った宮沢への反発はすごかった。「安物屋」「修繕屋」と中傷が続いた・・・。

迷走—気がつけば作品作りに走っていた

住宅の価格破壊を引き起こした注文住宅「M21」。坪単価は従来の約1/2という21万円だった

創業から8年目の27歳、勝気の宮沢はまだ若かった。予想を超える反発に宮沢は迷走する。

「それならデザインで勝負する。そのうえで安ければ文句のつけようがない」と有名デザイナーと手を組み建築雑誌に載るようなデザイナー住宅を手掛けた。

住宅は評価された。しかし専門家に評価されても一般ユーザーの反応は予想外だった。「自分の住む家は普通でいい」。

そこで宮沢は当時、流行の兆しをみせていた最先端の欧米風住宅に方針を切り替える。とことんこだわる性格だけに「やるなら本場がいい」と輸入住宅専門会社「ノースアメリカンホームズ」を設立、カナダの会社と提携した。89年のことだった。

宮沢が考えたのは、現地の部材やデザインをそのまま生かした外観パネルを生産、それをパッケージ化して輸入、日本で組み立てる「パネル・パッケージ・システム」。いわばプレハブ工法で、坪29万8,000円からという価格で販売した

宮沢を一躍、時の人に押し上げた輸入住宅事業。機密性・断熱性・機能性に優れていたが日本での売れ行きは予想に反してさっぱりだった

本格的な輸入住宅—テレビや新聞に取り上げられ、話題になった。当時のマルルーニ首相から感謝状も授与された。しかし見学に訪れる一般ユーザーの反応は意外にも冷ややか。住み手のライフスタイルという面で北米と日本で温度差があったのだった。

会社はまた苦境に陥る。苦し紛れでは何をやってもうまくいかなかった。「作り手の論理、価値観をお客さんに押し付けていました」。多くのスタッフが宮沢のもとを去っていった。

2万項目の単価データベースを手掛ける

これらの失敗は宮沢に大きな教訓をもたらした。住宅は気候風土、習慣、文化に合わせること。寒冷地では屋内でも靴で生活し、家が壊れたら直せばいいという北米と日本はまったく異なる。

そして何よりも業界ではなく、最終ユーザーに受け入れられること。「ユーザーニーズから離れて、作り手の思い込みがあった」と述懐する。

「誰のための家作りなのか—自己満足に陥っていました。一般ユーザーに喜んでもらえる住宅づくり、当たり前のことを忘れていたんです」。回り道をしたが原点に戻った。

「当たり前のことを当たり前にやろう」と、91年に営繕の会社など3社を合併し社名もアキュラホームに改めた。建築工法も「日本で生まれ育った在来工法が性能的に一番いい」。従来の木材を使った在来工法のよさにあらためて気づいた。

「それから普通の人が求めやすい価格を実現するため、住宅の価格について考え直しました」。本格的なコスト分析が始まった。

住宅に使うすべての部材を分解して2万項目以上の単価データベースを作成、コストを見直した。施工の工程も徹底的にチェックし無駄を除いていった。すると1割、2割と安くなっていく。

「変な言い方だけど、目覚めてしまった」と宮沢。部分的には小さなコスト低減だが、1件の家になるとドカッと下がることが快感になった。「普通の家で普通のことをやったら、お客様に支持された」のだった。

住宅業界では価格はブラックボックス、いい加減でもやってこられた。土地を買って家1件建てれば300万、500万円、中には1,000万円儲かったなんてこともあった。そういう大工や工務店からは「細かいことをやること自体がおかしい」と宮沢のやり方は完全に否定された。

しかも構造的に必要がなくなった部材や工程を除くと「材料抜いた、手を抜いた」「あそこは家じゃない、張子の虎だ」と批判される。

もう迷わない

大工の反発もあった。長い間の匠の世界で培った手順を変えられることを嫌った。棟梁は侵してはならない一種の聖域。それが若造の半端大工くらいに思っている宮沢に今までと違う手順を指示される。

「おまえのよく分からない家づくりに俺はつきあえねぇ」といって突き放された。無駄な部材や作業をなぜやるのか議論すると、最後は「昔からこういうものだ」と片付けられた。

同業者の中傷や大工たちの反発はやはり日常茶飯事だった。しかし宮沢はもう迷わなかった。

「自分たちでお客様を探し、喜んでいただいている」。最終ユーザーのニーズを支えに「当たり前のことを当たり前にやる」方針を貫いた。過去の苦い経験が宮沢を奮い立たせた。

住宅に関する規制との闘いもあった。住宅金融公庫の仕様書に「床下換気口が必要」とあった。しかし床下のない次世代省エネルギー住宅。床下換気口がないからと建築確認できないといわれた。

宮沢は、通気性は別の方法で確保していること、仕様どおりではなく性能を満たすことが重要だと根気強く説明、確認を取った。常識を覆すということは、あらゆる意味で“闘い続ける”ことだった。

価格・コストを明瞭化し、どんぶり勘定を改め、住宅建設の合理化を進める—。ニーズに裏付けされた進むべき道が決まった。思いだけでも、技だけでもダメ。お客さんが納得のいく真の安心の家づくりを目指して宮沢の次なる闘いがスタートした。

プロフィール

宮沢 俊哉 (みやさわ としや)

1959年、東京都生まれ。中学校卒業と同時に埼玉県の工務店で大工修行を始める。18歳にして新築住宅一棟を手掛けるようになるものの工務店の倒産で独立。19歳で「都興(みやこ)建設」を創業し、家屋の修繕・リフォームを手掛ける。1981年、「(有)都興営繕」を設立し、一般ユーザーを直接対象にしたリフォーム業で成功を収め、1986年に新築住宅部門「(株)すまいの都」を設立。同年、住宅建築の合理化システム「アキュラシステム」の前身となるコスト分析をスタート、坪単価21万円の自由設計による注文住宅「M21」を開発し、大ブレークする。1989年、輸入住宅専門会社「(株)ノースアメリカンホームズ」を設立するが「適正価格・高品質でお客が納得できる家」という原点に立ち返る。91年、「(株)すまいの都」を「(株)アキュラホーム」に社名変更し、96年に「(有)都興営繕」、「(株)ノースアメリカンホームズ」を吸収合併。自社の合理化ノウハウをアキュラシステムとして成熟させ、全国2,400店の工務店に公開。1998年、全国600店もの工務店連合「JAHBnet(ジャーブネット)」を主宰。著書に「住まいづくり、第三の選択(現代書林)」「安くて納得のいく家を建てたい(ダイヤモンド社)」などがある。

企業データ

企業名
株式会社アキュラホーム
Webサイト
設立
1981年(昭和56年)5月
資本金
9,314万円
従業員数
594名(08年3月末)
所在地
〒163-0234 東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビルディング34F
Tel
03-6302-5001(代表)
事業内容
住宅事業、工務店支援事業、研究開発事業
売上高
204億円(08年2月期)

掲載日:2008年4月24日