闘いつづける経営者たち
「宮沢 俊哉 」株式会社アキュラホーム(第2回)
02.1億円の売り上げでも1,000万円の赤字—脱却を目指して価格を明示したら電話が殺到した
技は見て盗め
早く仕事を覚えて、祖父や父のような棟梁になりたい。そんな宮沢の思いとは裏腹に、修業先の工務店ではなかなか大工仕事を教えてくれなかった。
先輩大工が5、6人いる環境で、中学新卒は宮沢だけ。当然、最年少。道具や材料をもってこい、後片付けをしておけと「手元」といわれる雑用や粗仕事ばかり。棟梁に「仕事を教えてほしい」というと、いつも答えは「まだ早い」・・・だった。
「誰も大工仕事を教えてくれない」—別に棟梁や先輩大工が意地悪だったわけではなく、当時の職人は「技は見て盗め」の世界。教えないというより、マニュアルもなければ、さじ加減の部分も多く、兄弟子の仕事を見ることによって頭ではなく体で覚えろということだった。
だから現場では親方や先輩大工の仕事ぶりを目を皿のようにして見た。そして誰もいない夜中の下小屋(作業場)で、見よう見真似で覚えたその技術を隠れてこっそり試したり、加工ものの練習をしたりする。そんな日々が続いた。
「そうなると練習だけでなく本番もやりたくなるものです」。宮沢は生意気にも棟梁に「家1軒建てさせてくれ」と頼み込んだ。「とんでもない」—頭ごなしに否定されてついに工務店を飛び出した。
徒弟制度の崩壊、そして工務店の倒産
工務店を飛び出してからは、仕方なくアルバイトで食いつなぐ日々。あるとき先輩大工たちに棟梁に詫びを入れろと諭された。宮沢は土下座をして謝った。
棟梁は「そこまでやりたいなら。でも、だめだったらおしまいだからな」という条件付きで簡単な建売住宅をやらせてくれることになった。記念すべき1棟目は、わずか18坪。それでも宮沢が初めて建てる家。宮沢俊哉、18歳の棟梁だった。
「この初仕事がとても勉強になりましたね。大工の世界で「段取り八分」という言葉がありますが、隣の住宅のベテラン大工は私が夜中までかかってやる仕事を日暮れ時に終わらせていました。よく見てみると、私の動きには無駄があったんです。私がせいぜい2手、3手の先読みなのに対し、ベテラン大工は10手も先を読みながら段取りしていました」
ここで学んだことは工期短縮のための作業効率をよくするという点で、後の住宅建築の合理化システム(「アキュラシステム」)を確立する際に大きなポイントになったという。
宮沢が1棟目の感激に浸っていたころ、大工の徒弟制度は音を立てて崩れていた。これまでは徒弟制度の中で10年以上もまれて優秀な大工が棟梁になり、役割分担した弟子とのチームで家を建てるのが普通だった。
しかし高度成長時代に建売ブームが訪れた。宮沢のいた工務店も建設会社になり、棟梁は社長に。そして弟子たちに「一人親方」で建売住宅を建てさせるようになった。
ところがブームに乗って拡大していったものの、発注元の建売会社に連鎖して工務店が倒産。親方も夜逃げをしてしまう。途方にくれて別の発注元の現場に行くと、仕掛りの仕事を仕上げてほしいと頼まれた。これがきっかけで独立、下請け仕事を手がけるようになる。
宮沢19歳、軽トラック1台でのスタート。アキュラホームの前身となる「都興(みやこ)建設」の創業だった。
仕事は修繕が多かった。ありとあらゆる修繕を手がけた。最初は食べるために無我夢中。でも経験を積むと、おもしろくなってきた。修繕はほかの大工が建てて、だめになった個所を見る。これが勉強になった。
「この部分は腐りやすい、ここは構造的にゆがみやすいといったことがよく分かった」。それに加えて「職人のノウハウや工夫も習得することができた」という。他の新築を手がけるときに注意すべきポイントがおのずと身についていった。
元請けがすべて。ユーザー直結で下請け脱却
創業から3年目の81年、リフォームなんていう言葉はない時代。下請け修繕の仕事は予想以上に順調だった。
「修繕なら仕事に困ることはないだろうと「都興(みやこ)営繕」を設立して、最終ユーザーからも直接、注文をとることも考えました」
宮沢俊哉、22歳。建築士一人を雇っての再スタートを切った。
もちろん修繕以外に下請けで建売の新築住宅も受注した。しかし、相変わらず建築はどんぶり勘定の世界。元請けから提示される金額ではとても採算が合わない無理な仕事もあった。
そうなると「その分、自分がかぶるか、仕入れ先や下職へ協力してもらい支払いを一部カットすればいいじゃないか」—なんていうことも珍しくなかった。
それ以上に不本意なことを求められることもあった。普通、住宅は布基礎という耐圧板を敷いて、その上に土台を乗せる。しかし、この布基礎を入れない。また土台は最低でも3寸5分角(約10cm)を使うが、それも薄くする。金物も抜くという具合・・・・。
「ここまで材料を抜くかとびっくりしました。しかし、いくらなんでもそんな無茶苦茶なことはできませんから結局、自分が損をかぶって仕事をやるしかありませんでした」
仕事は入ってくるのに儲けがでない。やればやるほど赤字になる。
「1億円の売り上げがあっても1,000万円の赤字。下請けをやっていては値引き要請がきつく利益が出ない、材料の削減は求められる。親会社から支払いをもらいはぐれるなど、厳しい状態が続きました」
下請け状態から抜け出すために宮沢は考えた。それは仕事を一般ユーザーとの直接受注だけに絞ること。そして、すし屋の時価のように不透明だった価格を明示する戦略をとることだった。
「風呂釜交換やベランダのスノコ修理など当時、周囲の住宅でニーズがありそうな具体例をカラー写真を挙げて価格とともに明示したチラシを作りました」
しかもそこには住宅ローン金利の情報や借り換えによる支払額のメリット、またその差額からリフォーム費用をねん出するといったような資金計画の具体例なども紹介されていた。
これが大成功した。そのチラシを新聞に折り込んだとたんに電話が殺到した。一般ユーザーも「大工さんに頼むといくらかかるのだろう」という不安を抱えていた。この成功が会社を建て直した。
それと同時に宮沢の頭のなかには、おぼろげながらもコストを管理して適正価格を明示する住宅建築の合理化システム「アキュラシステム」のイメージが芽生え始めていた。しかしそこに到達するまでには、いくつもの回り道をすることになる。
プロフィール
宮沢 俊哉 (みやさわ としや)
1959年、東京都生まれ。中学校卒業と同時に埼玉県の工務店で大工修行を始める。18歳にして新築住宅一棟を手掛けるようになるものの工務店の倒産で独立。19歳で「都興(みやこ)建設」を創業し、家屋の修繕・リフォームを手掛ける。1981年、「(有)都興営繕」を設立し、一般ユーザーを直接対象にしたリフォーム業で成功を収め、1986年に新築住宅部門「(株)すまいの都」を設立。同年、住宅建築の合理化システム「アキュラシステム」の前身となるコスト分析をスタート、坪単価21万円の自由設計による注文住宅「M21」を開発し、大ブレークする。1989年、輸入住宅専門会社「(株)ノースアメリカンホームズ」を設立するが「適正価格・高品質でお客が納得できる家」という原点に立ち返る。91年、「(株)すまいの都」を「(株)アキュラホーム」に社名変更し、96年に「(有)都興営繕」、「(株)ノースアメリカンホームズ」を吸収合併。自社の合理化ノウハウをアキュラシステムとして成熟させ、全国2,400店の工務店に公開。1998年、全国600店もの工務店連合「JAHBnet(ジャーブネット)」を主宰。著書に「住まいづくり、第三の選択(現代書林)」「安くて納得のいく家を建てたい(ダイヤモンド社)」などがある。
企業データ
- 企業名
- 株式会社アキュラホーム
- Webサイト
- 設立
- 1981年(昭和56年)5月
- 資本金
- 9,314万円
- 従業員数
- 594名(08年3月末)
- 所在地
- 〒163-0234 東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビルディング34F
- Tel
- 03-6302-5001(代表)
- 事業内容
- 住宅事業、工務店支援事業、研究開発事業
- 売上高
- 204億円(08年2月期)
掲載日:2008年4月18日