明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「森下博」広告宣伝で「仁丹」を世界に広げた男(第3回)

陸海軍軍医総監両閣下有効御証明

横文字はハイカラの象徴だ。大正はハイカラ時代である。森下は商品の外装にも工夫を凝らしている。つまり外装に効果的な宣伝文句を入れる工夫だ。創業当初の外装には「完全なる懐中薬にしてまた優秀なる口中香剤」と銘打ち、さらに「陸海軍軍医総監両閣下有効御証明・木村博士、笠原博士両大家御証明」などの文字が踊る。往事、「末は博士か大臣か」と言われたほど、博士号の権威は高かった。すなわち、軍医総監や医学博士の権威を利用することも忘れなかったのである。当時、文豪森鴎外は陸軍軍医総監の地位にあったが、森鴎外が仁丹の宣伝に一役買ったかどうかは記録にない。しかし、口中丸とはいえ薬剤のひとつであるのだから、そこでは医学的な検証が行われたのは当然であろう。外装に凝るのだから、容器に凝るのは当然だ。創立当初は金属製の丸形容器であったが、大正に入ると、ブック容器を発売している。白樺派の教養文化を意識してのことだったという。

こうした努力と工夫の事例を上げれば枚挙にいとまがない。日本が参戦した第一次世界大戦の勝利を記念し扇形容器を、大正に入り日本文化の見直しの動きが始まるやさっそく広重の浮世絵を採用し、さらに第一次世界大戦後の戦争不況のおりには、人びとの開運の願いを込めて宝容器を発売するという具合である。ちなみに宝容器とは、金属製容器の表面に縞模様のデザインを施し、金色に着色したものであった。そして昭和改元を迎えると人心一新を願う人びとの気分をくみ取り、透明容器を発売している。将来の見通しが明るくなるようにと願いを込めての発売であった。だから仁丹製品のデザインは常に斬新であり続け、その着想も時代の空気と気分を十分に取り入れたものであった。良い商品を世間に知らしめることが世に益することであり、さらに進んでひとつひとつの商品が人びとに役立つものであらねばならぬ——という「広告益世」の実践でもある。

経営理念は「家族主義と平等」

城山三郎の作品に『メイド・イン・ジャパン』がある。言わずと知れた森下博をモデルにした小説だ。仁丹の森下をモデルにした評伝や小説はかなりの数に上る。それは森下博が作家をその気にさせる魅力的な男であったからに違いない。徒手空拳、広島の片田舎から出てきた少年は、アッと言う間に世界的に通用する『メイド・イン・ジャパン』を作り上げたのだから、それも当然というものだ。仁丹と言えば、平成のこの世にも立派に通用する口中丸だ。世紀を超えて生き残れた商品はどれほどあるのかは知れないが、仁丹は世紀を超えていまに残る商品である。仁丹の呼び名に世代を越えて、懐かしく感じられるのはそのためであろう。さて、森下博のことである。評伝作家はいう。類い希なアイデアマンであり、傑出した宣伝人であった——と。森下には学問はなかった。しかし、学問をこよなく愛し、学問する人間を尊敬していたという。

森下は優れた経営者でもあった。経営の基本においたのは「家族主義」である。それは貧しく育った森下の信条でもあり、社員の採用にあたっても、出身や門閥にこだわらず保証人にもとることなく採用を決めた。いまで言う人物本位の採用だった。社員に対しては家族と同様に物心両面の温情をもって遇し、社員に子供が誕生すれば、自ら命名を買って出るという具合で、その数は340名に達したという。経営者としての思想は「家族主義と平等観」にあった。高野山奥の院に森下家の菩提所に大きな二基の納骨堂がある。一方が森下家の墓で、他方は社員の墓だ。そこに森下仁丹の社葬を受けた人たちを葬ったのである。現代の若者なら余計なことを!と言うかもしれないが、森下にすれば死後も社員の面倒を見るということなのであろう。そこに明治人経営者の心意気がみえる。森下は春夏秋冬に開かれる全従業員による慰安会を何よりも楽しみにしていたという。(つづく)