明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「森下博」広告宣伝で「仁丹」を世界に広げた男(第1回)
明治16年春、広島県沼隅郡の郷関を出て、東に向かって旅立つ少年の姿があった。少年の懐にはたったの15銭しかなかった。意気揚々としていて、少年は行けるところまでいってみようと心に決めていた。途中、野宿もした。喉が渇けば小川の水を両手ですくって飲んだ。少年は3日間歩き通した。たどり着いたのは大阪である。少年の名は森下博といった。森下は道頓堀の三木元洋品店の前に立ち、自分を雇ってくれないかと頼む。出てきた番頭は少年の顔をしげしげとみた。きかん気な風だが、利発そうだ。こうして森下少年は道頓堀の洋物店で丁稚奉公を始めるのである。森下博の少年時代の資料は少ない。しかし働き者であったようで、生活も慎ましく、倹約貯蓄した資金を元手に念願の独立を果たし自前の店を持つようになるのは明治26年のことだった。森下博はまだ26歳のときで、大阪東区淡路町に「森下南陽堂」の看板が掲げられるのであった。世界的にも名が知られるようになる、いわゆる「森下仁丹」誕生である。
宣伝広告のアイデアマン
初めての街を訪ねたとき、お世話になるのは電柱の町名表示だ。これは行政サービスのひとつと思いこまれている方も多いかも知れぬ。実を言うと、ちゃんとした発案者がいたのである。ここでの主人公森下博だ。そもそも電柱広告が許されるようになるのは明治23年のことという。森下が「森下南陽堂」を創業する3年前のことだ。電柱は道路の目立つところに立っている。これを広告宣伝に利用する手はないかと考えたのが、森下博というわけだ。往事郵便事業が始まり、配達夫は家を探すのに苦労した。森下はアイデアマンである。広告を張り出すだけでは見落とされる。そこで町名表示を併せてやることにしたのである。こうすれば、訪ねた家を探すひとは、必ず「森下仁丹」を目にする。こうして森下が、森下仁丹のトレードマークである「大礼服」の町名が街角の電柱に次々と登場することになる。やがて町名看板は全国津々浦々に広がっていく。
広告宣伝をめぐっては、もうひとつのエピソードがある。森下仁丹のトレードマークである「大礼服マーク」の由来のことだ。発売当時は伊藤博文の長男文吉ではないかとも言われ、また、森下博自身がモデルになったともされていた。一般には、「毒滅」の商標であり、森下南陽堂のシンボルでもあったビスマルク像がさまざまに図案化されて、デフォルメされながら、日露戦争当時大衆のあこがれだった大礼服姿に集約されていったのだというのが通説であった。森下博は人びとの間に噂や憶測を呼ぶこと自体を、広告宣伝と考えていた節がある。実を言うと、八髭に大礼服姿の人物は軍人ではなく、あれは外交官だと言う。海外に大きく飛躍することで事業の基礎を固めた森下仁丹。そう考えるならばなるほど、軍人ではなく外交官というのは納得できる。大礼服マークは全国津々浦々に浸透、世界各国に広がって「保健の外交官」という役割を積極的に果たしたのであった。
日刊各紙に全面広告
森下博ほど広告の重要性を知っていた男はいない。創業精神すなわち「広告益世」の理念は今に生きていて「仁丹といえば広告」と言われるほど仁丹と広告とは切っても切れないものになっている。森下博が広告の重要性を知ったのは「三木元洋品店」での丁稚奉公時代であったという。独立して森下南陽堂を開業した際、森下博は事業の基本方針のひとつとして「広告による薫化益世を使命とする」を掲げた。すなわち、広告は商売の柱である、と同時に広く社会に役立つものでなくてはならないという「広告益世」の理念を示したのであった。さて、森下博が大阪淡路町に「森下南陽堂」を旗揚げし、最初に売り出したのはにおい袋「金鵄麝香」である。創業からわずか2年目の明治29年のことだ。このとき、森下は大々的な広告を決断し、森下南陽堂は「金鵄麝香」の発売にあたり4月25日付けの『薬石新報』に全面広告を出した。これが記念すべき広告第一号だった。
さらに明治33年の「毒滅」発売に際しては日刊各紙に全面広告を出すなど大々的なキャンペーンを行って成功を納めた。明治40年に大阪駅前に完成させた大イルミネーションは大阪名物のひとつとなり、翌年には東京神田の開花楼の上に書方活動式三色イルミネーションによる広告塔も登場した。これらは、単に広告だけでなく、都市の新名所づくりなどを意図したものであった。森下が企業理念とした「広告益世」は、先の大礼服マークの入った町名看板にも現れている。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる。いや、国内だけでなく大礼服マークは中国大陸や東南アジアにも広がっていく。私が東南アジアを旅した30年前、その痕跡を排日運動の激しかったシンガポールで認めたときは驚いたものだった。(つづく)