明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「五島慶太」強盗と呼ばれた経済人(第4回)

昭和の大不況

それにしても凄腕の男だ。鉄道省を追われるように入った武蔵電鉄。しかし、武蔵電鉄は大赤字で、電鉄を施設するなどできる相談ではなかった。その株式の過半を握り、そして黒字経営の目黒電鉄に吸収合併させ、経営全権を握る。ここに「東急王国」は、その第一歩を歴史に刻むのだが、五島慶太は実に抜け目のない男なのだ。この時期の五島慶太は猛烈に働いている。東京横浜電鉄が発足すると同時に、往年の夢であった新線の建設に着手する。昭和2年7月には大町線を、同年8月には東横渋谷線を開通させて、さらに昭和7年3月にはついに横浜桜木町~渋谷間の全線を開通させる。

昭和5年には目蒲電鉄は田園都市株を吸収し、さらに両社社長を務めていた矢野恒太は退任し、後任社長はおかず、こうして五島慶太は東京横浜電鉄、黄金を生み出す目蒲電鉄両社の全権を名実共に掌握するのであった。しかし、関東大震災による「復興景気」はやがて終息し、昭和4年ニューヨークの株式市場が大暴落して、いわゆる世界大恐慌が勃発する。鉄道事業も影響を受けないはずもない。頼りの周辺地域の住宅開発も、大不況に勝てず業績は急落し、鉄道事業も収益は急落する。五島慶太は頭を抱える。この間の事情につき、五島慶太は「社員の給料に事欠き、渋沢秀雄君と保険会社に軒並み頭を下げて回った」と彼の著書『七十年の人生』に書いている。

予算制度の採用

自伝に登場する渋沢秀雄は渋沢栄一の次男で、秀雄は東大法学部を卒業し、父栄一の縁故で田園都市株に入り、その後は東宝に転じ、映画人として活躍した人物だ。彼は文人でもあり、東宝の社長会長を務める傍ら多くの随筆を残している。そういうわけで渋沢秀雄は東急とは縁があった。第一生命の矢野恒太社長も、東急支援に動いた。ちなみに、有楽町には関西の小林一三が東京拠点の宝塚劇場を、そして第一生命が本社を構えるのもやはり有楽町だ。彼らは固い結束力を誇っていたのである。

五島慶太は苦境期の経営合理化について、多くのページを割いて自伝に書いている。予算制度を社内に採用したのは、鉄道省にいたときの経験からだ。民間企業で予算制を採用するのは、東横が最初である。採用したのは「経済の合理化と経費の削減だ」と、五島慶太は自伝で語っている。その手段として、毎営業年度当初に各部課は、収支の見通しを出させ、役員会はこれを査定し、予算案を編成する。これを五島慶太は「予算即決主義」と呼び、社内に周知徹底させた。いまではごくあたりまえの経営手法だが、当時では画期的な経営手法であった。五島慶太は自ら編み出し、経営に適応させた「予算即決算主義」をやや自慢げに昭和31年7月の講演で、その効用を得々と話している

狙った獲物は逃がさない!

この講演ではどのように努力すべきか、その具体的な方策については語っていない。見えてくるのは、部下を叱咤する「強盗経営者」の鬼の姿だ。しかし、五島慶太は優れた感性の経営者だった。関西の小林一三は遊園地や住宅地を建設することで経営の安定化を図ったが、関東の五島慶太は自社沿線に学校を誘致し、定期券の発売を行い、収入の安定化を図るなどして経営の拡大を図った。なかなかの知恵者でもあった。大学の誘致では、昭和4年7月に日吉台の約7万3000坪を無償で慶応大学に提供。ここに慶応大学日吉校舎が誕生する。さらに昭和6年には一万坪の用地を無償で日本医科大に贈与し、翌年には青山師範に対し、経済的支援を行うなど、乗客を誘致するための事業は次第に文化事業の性格を帯びていく。文化事業が興れば人が動くと考えたのだ。

五島慶太の頭の中には壮大なプランがあった。それが鉄道沿線に着実に姿を現していくのは、昭和初め頃からである。その結果、東横・目蒲線の沿線には、大学や専門学校、撮影所、各種の文化施設が姿を現し、田園都市や沿線に移り住んだサラリーマンや、新しくできた大学や専門学校に通学する学生たちでにぎわい、定期券乗客は急速な伸びを見せたものだった。定期券はいわば前売り。前金商売であるから企業経営は資金的なゆとりもできて、次に目指したのは沿線と沿線を結ぶ「自動車事業」の展開だった。手始めに鉄道沿線の乗合自動車会社を次々と買収し、乗合路線の拡張を図っていく。(つづく)