明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「五島慶太」強盗と呼ばれた経済人(第2回)
ビジネスの要諦は人間関係
最初に引き受けたのは、富井政章の息子周だった。ご承知のように富井政章は、わが国民法の草分けの一人で、明治から昭和初期にかけて活躍した法学者だ。京都大学の前身京都法政学校初代校長を務めたほか、東大法学部長、貴族院、枢密院顧問などを歴任した法曹界の重鎮である。その息子の家庭教師というわけだが、五島慶太は、富井から人間的に多くの感化を受けた——と、評伝作家に語っている。家庭教師と法曹界の大御所。どのような関係を取り結んだかはわからないが、富井の息子周が高等学校に無事入学すると、富井は世話になった——と、五島を紹介した加藤高明に推薦状を書いた。
加藤高明は明治・大正期の外交官で、三菱財閥の総師岩崎弥太郎の女婿だ。三菱本社の副社長からときの外相大隈重信の秘書官に転じ、以後、大蔵省主税局長、駐英公使などを歴任し、第四次伊藤内閣の外相、第一次西園寺内閣、第三次桂内閣、第二次大隈内閣の外相を務め、のちに憲政会総裁に就任するなどした政界の大物だ。加藤高明とのつき合いが始まるのは、加藤家の家庭教師を務めてからで、五島慶太自身が「加藤高明には大きな影響を受けた」と書いている。ビジネスとは、つまるところ人間関係にある。五島は、ビジネスの要諦を、若き時分からよくわかっていた。
東大を卒業するのは明治44年。満29歳のときだ。この年の東大法科は豊作で、同期にはのちの外相重光葵、戦後首相を務めた芦田均、読売の正力松太郎、吉田内閣の蔵相小笠原三九郎、検事総長から吉田内閣の法相を務めた木村篤太郎、経団連会長の石坂泰三など政財界の大物があった。大学卒業のその年に、五島は高等文官試験に合格している。官僚としての栄達の切符を手に入れたわけだ。しかし、迷いがあった。そこで相談したのが旧知の加藤高明だった。加藤は五島を高く買っていて、推薦したのが農商務省だった。いまの経産省だ。これから産業が重要になる——との判断を示したのだった。
官を辞し、活路を民家に求める
配属されたのは工務局。希望通りの配属だった。そうしたのは当時、工場法が初めて施行されてことになっていたからだ。夢は工場法が施行されたのち、工場監督官に就任することだ。工場監督官とは日本産業の全権を握る職種だ。しかし、思惑通りにことが運ばないのが世の常だ。農商務省に入省して二年目。山本権兵衛内閣が同法施行を三年延期することを決めた。工場監督官を経て実業の世界へと考えていた五島は、方向を変えざるを得ない。そこで再び相談したのが、加藤高明だった。加藤は鉄道院入りを奨めた。
五島慶太の鉄道省生活は大正2年から同9年まで7年間であった。鉄道が将来性に富む事業であると確信を持つようになったのは鉄道省に入ってからだ。五島は鉄道省で多くのことを学んだ。産業の血流であるとの認識を得た。洋々たる前途が広がっているように見えた鉄道省を退職し、民間の武蔵鉄道常務に転じるのは、大正9年5月だ。退職の理由を「単調な役人生活に飽き足らなくなったから」と周囲に説明している。それもあろう。しかし、それだけではない。考えてみれば、人より五年も遅れての官庁入りである。38歳でようやく総務課長。先行きは知れていると考えたのだった。
評伝には役人生活に終止符を打ち、民間に転じた理由を以下のように書いている。すなわち、当時の鉄道省次官の石丸重美が武蔵鉄道社長の郷誠之助から鉄道建設と鉄道経営に有能な人材を求めているのを聞き、五島を推薦したのだという。入ってみると、考えていた以上に武蔵電鉄の経営は酷いものだった。推薦した石丸重美次官に文句を言った。石丸は返した。だから君に再建を頼んだんじゃないか——と。そう言われて考えた。経営はぼろぼろ状態だ。しかし、首都圏の地図を広げ、五島慶太は構想を練った。将来を考えれば悪くない立地条件だ。問題は建設資金が集まらぬことだ。おりから経済界は第一次世界大戦の反動不況で、とても鉄道に資金を投じられるほどのゆとりはなかった。(つづく)