明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「山本条太郎」情報をカネに替えた草分けの商社マン(第5回)
カネでポストを買う政治家
こうなると、三井としても山本条太郎を庇うわけにはいかない。大正4年、条太郎は三井物産重役を辞職する。失意の山本を救ったのは、折からの大戦景気だった。都内ホテルに事務所を構え、次々と新規事業を興す。大洋汽船、日本火薬、農州鉱山など、山本が関与した事業会社の数は十指にあまる。山本はシーメンス事件で世間の指弾を受けた。しかし、彼は平然と新しい事業に立ち向かうのだった。
とはいえ、三井財閥が抱える事業に比べれば事業規模も小さく、実態は中小企業だ。そんな事業に関わっていることが、彼の自尊心を許さなかったのか、政界転出を決意するのだった。生まれ故郷の福井選挙区から衆議員に打って出るのは、大正9年のことだ。所属したのは、三井が支援する政友会。政界に打って出たのはシーメンス事件を、政治の謀略だったと受け止め、反転攻勢に出ようと決意したのだった。大正12年に政友会政務調査会副会長、13年行政整理特別委員長、昭和2年には、政友会の幹事長に就任する。トントン拍子の出世といってよいだろう。
しかし、政治家としての評判は芳しいものではなかった。政友会での地位も、カネをバラまき、カネで買った地位であったからだ。カネでポストを仕留める手法は、政界を堕落させただけだった。政友会の幹事長にまで上りつめながら、政治家として最後まで固執した大臣の椅子だ。しかし期待は空振りに終わる。シーメンス事件に連座したことが祟ったのだ。政界に出てからの山本は、あの少年時代のような覇気を失っている。大戦景気で儲けたカネはふんだんにある。カネをバラまき、カネでポストを買う政治。昭和・平成の政治家も同じようなものだが、それが政党政治家の必須の条件と考えたのが間違いだ。いまや自分が育てた森恪は、犬養内閣で内閣書記官長を務めているのだから、面白うかろうはずもない。やはり、山本条太郎には政治家は似合わなかったのだ。
最後の仕事・満鉄総裁
そんな失意のなかにあった条太郎のもとに、満鉄総裁就任の話が持ち込まれる。山本は小躍りして就任を受けた。昭和2年7月、山本条太郎は大連に赴任する。条太郎は根っからの商売人だ。政界転出は失敗に終わったが、満鉄の立て直しでは、事業家として辣腕を発揮した。初代総裁後藤新平、松岡洋右と並ぶ名総裁と呼ばれるにふさわしい仕事をしている。化学工業を興し、製鉄事業の立ち上げに助力するなど、山本条太郎の満鉄での事績を訪ねるならば数え切れないほどある。満鉄改革をやり遂げたことも特筆しなければならない。とくに重視したのは満鉄調査部の強化だった。
情報を整理分析することの意味を、米の買い付けに利根川の集積地へ出向き書き上げた業務報告書に重ね合わせながら、彼は思い出していたのかもしれない。満鉄総裁は短期間だった。昭和4年、山本は辞任する。山本が満州から去った直後、満州事変が勃発する。やがて日中全面戦争に突入する。その昭和11年3月、切迫する大陸情勢を耳にしながら病に倒れた。享年70歳であった。中国と山本条太郎は切っても切離すことができない。最後の仕事が満鉄総裁であったことは、仕事師山本条太郎にも満足であったに違いない。