明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「山本条太郎」情報をカネに替えた草分けの商社マン(第3回)
条太郎が張り巡らせた東南アジアの情報網
戦争勃発の報を聞くや、山本条太郎は香港、シンガポール、サイゴンまで情報網を張り巡らせ、情報を収集し、海軍当局に通報する役割を買って出た。商社の持つ情報ルートは多岐に渡る。取引先や自らの支店網。さらには外国商船の船長や水先案内人にまで、懐柔の手を伸ばし、情報を集めた。バルチック艦隊が日本海に接近したときなどは、条太郎が自ら小型船舶を借り受けて、監視活動を行った。その都度、上海支店を経由し、東京本店を経て、海軍当局に電報は届けられた。
バルチック艦隊の対馬海峡通過の可能性を、いち早く判断できたのも、山本条太郎が発した電報に負うところが大きかった。対馬沖に布陣し、日本連合艦隊がバルチック艦隊を待ち受けた。いわゆる日本海戦でバルチック艦隊が殱滅した。このとき、山本条太郎は弱冠39歳。上海にあって三井物産清国総監督という地位にあった。軍事探偵のような仕事をするとは、商売人としてはいささか逸脱の感もなくない。もちろん、条太郎が中国でやったのは、軍事協力ばかりではない。
商売の要諦は人材教育にあり!
商売というのは人と人の関係であり、結局は人間関係に収斂する。山本条太郎は、そのことをよく理解していた。そういう視点から取り組んだのが人材教育だった。まず社員に語学の研修をほどこしたこと。彼が重視したのは語学ばかりではない。中国で商売をやるには、中国人の文化や心理も識る必要がある。このような構想からスタートしたのが「支邦部商業見習い制度」であった。教育で強調されたのは「中国人の心を識る」だった。この教育制度から後年、政界で活躍する多くの人材を生んだ。
昭和2年田中内閣の外務政務次官を務め、幣原喜重郎外交を批判し、対中国強硬の田中外交を推進し、同年の山東出兵、東方会議などに大きな役割を果す森恪などもその一人だ。森は、7年国際連盟脱退を暗示する演説をするなど、いわゆる「東亜新体制」の先駆とされた人物だ。4年立憲政友会幹事長、6年犬養内閣書記官長などを歴任した。極右路線を走り、軍部といっしょになり日本を破局に追い込んだ政治家だが、ともあれ山本の下で働いた森は優秀な商社マンであったことだけは確かだ。
上海紡績工場の再建に一役欧
さて、山本条太郎は中国での働きを認められ、参事に昇格し、大阪支店綿花部長に就任するのは、明治30年10月のことだ。しかし、条太郎は鬱々としていた。やはり、山本条太郎には国内よりも、中国大陸が似合っている。再び中国に戻るのは明治34年9月だった。4年ぶりの中国。条太郎が着目したのは、中国の綿紡績だった。条太郎には苦い思い出がある。というのも、若い時分に上海で取り組んだ綿紡績事業が経験不足から失敗に終わったからだ。今度は違う。大阪で紡績業の経験をつんだ。
上海に再赴任した翌年、条太郎は経営不振の現地紡績会社を買収し、これを上海紡織有限公司と名付けて、取締役に就任する。まず工場の実情を調査するところから再建の道を探った。原料の買い付け、設備の改善、従業員の訓練教育、そして営業方針の見直しを行った。買収した現地法人は見事に立ち直り、好成績をおさめるようになる。評判がたち中国人実業家盛宣懐から申し入れがあり、彼が所有する「大純紗廠」の立て直しに協力する。こうして中国における本格的な産業投資が始まるのであった。
条太郎は中国紡績業の近代化に辣腕をふるう一方で、本来の商社事業である貿易についても、新規商品を次々と開発し、日中貿易の拡大に大きく貢献するのだった。いわゆる三角貿易という取り引き形態を開発するのも、この上海支店長時代だ。いまでもこのビジネスモデルは生きている。条太郎は40代に入り、それまで暖めていたアイデアを次々事業化していく。例えば、原産品を輸出商品に育て上げ、これを欧米諸国に売り込み、さらに欧米諸国の商品を中国に持ち帰るというビジネス方法だ。しかし、苦戦 も強いられる。