明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「藤岡市助」我が国最初の大学ベンチャー(第4回)
発明王エジソンとの出会い
電灯の啓蒙と普及のため、藤岡は機会あるたびに観衆を集め公開実験を行っている。ひとびとを啓蒙するには、実証的な方向がもっとも効果的であると心得ていたからだ。しかし、アーク灯は仮の姿に過ぎない。やがて白熱灯に代わるものと藤岡は確信していた。藤岡が白熱灯の研究で一歩大きく踏み出すのは、米フィラデルフィアで開催された万国電気博覧会に出席したときからだ。やはり主流は白熱灯に移っていた。博覧会では、藤岡ら一行は大歓迎を受ける。しかし、藤岡は工場廻りに忙しく動いた。エアトン教授から聞かされていたアメリカ工業の実情を確かめるためであった。
旅の途中で藤岡市助は二人の重要な人物と会う。一人はエアトン教授の恩師トムソン教授だ。トムソン教授はボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で教鞭をとっていた。特別講義を拝聴したあと、藤岡はトムソン教授に面会を求める。極東からやってきた孫弟子にトムソン教授は、このとき、二冊の講義ノートを贈っている。藤岡はさらにニューヨークに足を伸ばす。すでに事業として成功を収めている電灯会社を見学するためだ。しかし訪米での何よりの収穫は、発明王エジソンに逢えたことだ。変わり者で気むずかしいエジソンは、このとき藤岡を大歓迎し、発明したばかりの電話機や白熱灯を見せられる。
白熱灯にかけ退路を断つ!
エジソンが示した電気製品の精密なことに驚き、藤岡市助は強い衝撃を受ける。後に藤岡は「電気器具を輸入するようじゃ、国は滅びる」と周囲に語っている。電気工業は材料から加工に至る総合技術であり、どれが欠けても、精緻な製品はできない。藤岡は電気器具を、国力の象徴とみなしたのである。藤岡はいよいよ白熱灯の国産化に情熱を燃やすのであった。他方では藤岡は自ら電灯普及のため、宣伝役を引き受け、大学の同僚たちから顰蹙を買ったりもした。大学ベンチャーに対する風当たりは、いまも昔も変わらないのである。しかし、藤岡は平気だった。白熱灯用発電機の製造を、親友三吉正一と始めるのは明治18年のころである。
藤岡は派手なパフォーマンスを繰り広げた。それもまた白熱灯の普及と啓蒙のためだと割り切った。東京銀行集会所の開所式に際しては、自ら発電機を会場に持ち込み、点灯してみせた。これが来賓をびっくりさせ、白熱灯の人気が高まる。この成功で、東京電灯はアーク灯か、白熱灯の論争に決着をつけ、白熱灯方式を採用する。明治18年6月末のことであった。同年12月、工部大学校は東京帝国大学に統一され、翌年、藤岡は帝国大学工科大学助教授の辞令を受ける。しかし、藤岡は大学での立身など望まず、助教授の職を辞して、東京電灯に技師長として入る。白熱灯にかけた藤岡は退路を断ったのである。
白熱灯国産化の熱い思い
この年、東京電灯は本格的な営業を開始する。藤岡が大学ベンチャーと して電灯事業を構想してから四年の歳月が流れていた。藤岡市助は国家がやるべき大事業を、大学ベンチャーとしてやり遂げたのだった。明治19年夏、日本で最初の白熱灯を採用した工場ができた。内閣官報局の赤坂紀尾井工場が採用したのだ。これが評判となった。工場やホテルあるいは公共施設など、全国各地から白熱灯設置の依頼が急増した。発電機は三吉の力で何とか自前のものを提供できたが、しかし、白熱灯だけは依然輸入に頼らなければならぬ状況にあった。藤岡は再び研究室にもどる。
材料選びや電球の真空化、その量産技術の確立など、藤岡市助は実験室 にあって苦闘を演じていた。幾度も失敗し、挫折しかけた。しかし、白熱 灯への熱い思いを、断ち切ることはできなかった。東京電灯の研究室で、国産第一号の白熱灯の量産化にメドをつけたのは明治22年のことである。国産第一号の白熱灯は炭素フィラメントを用い、試作に成功したのは12個であった。これで量産化にメドをつけ、翌年、藤岡は三吉とともに、電球製造会社・白熱舎を設立し、自ら社長におさまる。
国産白熱灯は2時間点灯
白熱舎の本社は東京京橋におかれた。発熱電球の日本で最初の点灯は、 上野・高碕館の鉄道開通の記念式で行われたと記録される。このころから、 藤岡らの努力が実り、白熱電球がひとびとの暮らしや、社会において利便性・事業性の認識が高まっていく。エジソンが発明した白熱灯を、国産化するには幾つも高いハードルがあった。それらをすべてブレークスルーする必要があった。例えば、ガラス管球を作ること、電球から空気を抜き出す技術、耐用性の高い、長持ちするフィラメントを製造する技術などなどだ。
それらをクリヤーするため、藤岡市助は東京京橋の東京電灯の研究室( とはいっても社宅を改装した建物だが)で実験を繰り返し、試作を試みたのであった。藤岡が採用したのは竹のフィラメントで、試作から9ヶ月、エジソンの開発から遅れること11年後の8月12日に、国産白熱灯は2時間点灯し続けたと記録される。ついでながら、当時の電球生産量は一日10個から15個程度で、一ヶ月300個が限度であった。値段も高価で10燭光で80銭というから、ずいぶん高価なものであった。ちなみに米 一升が8銭の時代のことである。しかし、ともかく「自給自足・国産化」の夢は実現したのである。
バトルで学力をつける学風
よく知られるように東京電灯は現在の東京電力の基礎を作り、他方、三吉正一とともに創立した白熱灯製造会社・白熱舎は、その後、田中久重率いる田中製作所と合流し、東芝のエレクトロニクスの源流を形作るのであった。もちろん、藤岡市助が手がけた研究や事業は電灯ばかりではない。実学を重んじ、行動の人であった藤岡は、冒頭に紹介したようにエレベータの試作や、自分で考案設計した電車を、上野で開かれた勧業博覧会に出品している。いっとき東京・大阪間を走る高速鉄道を企画したこともあった。
岩国藩(周防)は小藩ながら教育熱心な藩だった。そのおかげがどうか、多くの逸材を排出している。先に亡くなった女流作家の宇野千代、マルクス経済学者で『貧乏物語』で有名な京大教授河上肇、日本を代表する文芸 評論家河上徹太郎は市内曲尺の生まれで、海軍軍楽隊長を務め、名曲「美しき天然」で有名な田中穂積などがいる。幼少のころ、市助は、毎日錦帯橋をわたり、横山にあった養老館の素読寮に通った。そこに通う子供たちはみんな熱心で、勉強会をするために夜も集まったそうだ。市助は、凝道社という名前の班を作り、話し合いのバトルをしたりして学力をつけたという話が残される。共通するのは岩国のひとびとはとても勉強好きだということだ。
先の上野の勧業博覧会で「電車」を発表するのも、三吉正一と白熱舎を 立ち上げるのも凌雲閣に12人乗りエレベータを稼働させたのも、藤岡33歳のときだ。例の白熱灯の試作に成功するのは前年である。いかにも大学ベンチャーらしいのだが、藤岡は若い時分にそのほとんどの仕事を成し遂げている。白熱舎を東京電気に改め、三吉正一から社長の座を引き継ぐのは41歳のときだ。しかし、晩年の藤岡は恵まれなかった。55歳で脳の病に倒れ、肺炎を併発し、60歳で生涯を終える。奇才藤岡市助の記録は、その仕事に比較して意外に少ない。藤岡は親思いの孝行息子だった。東京に出てから頻繁に親元に手紙を書き送っている。その書簡が岩国学校教育資料館に残されている。