明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「藤岡市助」我が国最初の大学ベンチャー(第2回)

エアトン教授も意欲的な人だった。当時、研究者たちはアーク灯よりも小型で、人の目に優しい発光体の開発にしのぎを削っていた。すなわち、 白熱体に炭素棒や白金を利用する研究だ。しかし、いずれも失敗に終わり、成功しても、短時間の点灯に終わった。それはフィラメントの酸化問題が解決できなかったからだ。酸化問題を解決するため、真空電球を提案するものもあった。エアトン教授が情熱を燃やしたのはアーク灯だった。おりから東京にはイタリアオペラ公演が、工学寮で行われることになった。オペラ公演をアーク灯で歓迎しようと、教授は考え、準備した。しかし、これは失敗に終わる。学生たちは傍観者でいたわけではない。これらの実験 計画にすべて参加した。

あなたの店で点灯させてみせよう!

ついでながら、寿命の長い真空電球の実用化は、1879年に英国のス ワンとアメリカのエジソンが、ほぼ同時期に、炭素電球によってなしとげた。エジソンの発明で特筆されるのは、高価な白金ではなく、身近で安価な材料による電球の開発を目指し、ついにミシン用の木綿糸に煤を塗り、蒸し焼きにした炭素電球を発明したことである。当時の電球の研究の主題はフィラメントの長寿命化にあり、エジソンはさらに長寿命の材料を求め、世界各地から7600種類もの、フィラメント材料を収集し、実験を重ねた結果、竹の炭素繊維を用いて、45時間の点灯に成功することはよく知られる通りだ。

さて、われらが藤岡市助のことである。藤岡が6年の学生生活を終える のは、明治14年のことで、学位論文『測定器ガルバメーターに就いて』 は、現在も東大工学部資料室に残されているそうだ。首席で卒業した藤岡は、直ちに工部七等技手に任ぜられ、工部大学校詰めを命じられる。いまでいえば助手だ。さらに同年、教授補に任ぜられ、藤岡は誰がみても学究の道を歩むものと信じられていた。しかし、藤岡はやはり大学ベンチャーなのであり、卒業直後から実業の世界に関心を持つようになる。

その藤岡を訪ねてきた一人の人物があった。田中久重という人物だ。こ の人物との邂逅が藤岡の目を実業の世界に向けさせる。当時、藤岡はアーク灯では有名人だった。人の目のつくところで幾度も実験を繰り返し、また23歳の学生、藤岡は我が国最初の電信技術解説書『電信初歩』を著すなど、ベンチャーたる存在感を示していた。その藤岡に田中久重は訊いた。アーク灯は実用化できるものなのかね、いや今すぐではないが——と。藤岡はこう応えたのである。あなたの店で点灯してみせましょう——と、若干25歳の若造が大見得を切ってみせたのである。驚いたのは田中だ。

カラクリ師田中久重との邂逅

ちなみに、田中久重は東芝の創業者であり、当時は自ら創業した田中製 作所の社長を務めていた。九州久留米出身の田中の実家の生業は鼈甲細工屋だった。親の血を引いたのであろうか。田中は幼少のころから手先が器用で、物作りや細工物を得意とし、水力による玩具を作ったりして、カラクリ偽右衛門などと呼ばれたりした。話をしているうちに、二人は意気投合した。夜を昼に変える点灯。電球が普及すれば、世の中は一変する。ともかく電球を一般に普及させるには、一般の人たちの理解が必要であり、二人は電球の普及を誓い合うのだった。

藤岡は約束を果たすため、研究室に籠もり、電灯の改良と試作に取り組 む。始めたら途中でやめられない性分の男で、実験室に発電機を動かす蒸気機関を持ち込んだり、大がかりな実験を試みた。実験を積み重ね、真理を探求する姿勢は、エアトン教授から学んだ科学の精神だ。こうして田中久重の要請に応えて、藤岡はついにアーク灯を完成させるのであった。田中の新橋の店で、政府高官や電信学会の重鎮たちを招き、改良アーク灯のもとで晩餐会を催すのは、翌年のことであった。しかし、藤岡はこの成功に酔うようなことはなかった。前述のようにこの時期、エジソンはすでに 白熱灯を発明したのを、文献を通じ得て知っていたからだ。藤岡はまだ白熱灯がどんなものか知らなかった。

工部大学校教授が説く電灯会社の必要

しかし、この文献を読み、藤岡は大いに刺激されたのである。藤岡が機 会あるごとに電灯の普及と電灯を普及させるための会社設立を力説するようになるのは、このころからである。とはいえ、白熱灯とはどんなものであるのか、藤岡すら知らなかったのだから、一般の人たちが知りようもないのは当然だ。夜を昼に変える。意味はわかるし、それがあれば便利であるのは理解できる。もうひとつわかることは、電灯を普及させるには、膨大な事業資金が必要になることだった。まあ、極東の後進農業国日本で、そんなものが必要かという疑問もわき上がる。藤岡が電灯の必要性を説けば説くほど、なにやら大山師のようにも見られてしまうのだった。当時、藤岡は工部大学校助教授の職にあった。

人を求めれば、必要な人に出会うものである。藤岡市助は旧知の江木千 之に相談を持ちかけた。藤岡の話を聞き、江木は長州人山尾庸三を紹介す る。維新のころの山尾はイギリス大使館に焼き討ちをかけるなどの過激派の尊皇攘夷の志士であった。その山尾が翌年ロンドンに留学し、工学を学び、明治3年に帰国したのち、民部省・工部省に出仕し、横須賀製鉄所の建設にあたった男だ。ついでながら、山尾は藤岡が工部大学校の学生時分の工部卿であった。すなわち工部大学校を統括していたのである。こうなると話は早い。