明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「三野村利左衛門」情報に通じた目利きの番頭(第2回)

情報の価値を知る男

三井家は本業の呉服の商いに加え、両替商としても超一流の大商人だ。素性もはっきりしない男が、大番頭に引き上げられるにはわけがあった。利左衛門は「情報」の意味をよくよく知っていたからだ。宝暦年間のことである。利左衛門は御用金の話を小耳にはさんだ。勘定奉行小栗上野介の屋敷で働いていたときのネットワークである。勘定奉行といえばいまでいう財務大臣。幕府の財政を一手に仕切るのが、勘定奉行だ。その幕府が三井家に御用金を賦課する話を内密に進めているという。用意せよ!というのは200万両にも上る大金だ。三井家はそれまでもたびたび御用金を求められていた。今度の場合は長州征伐のための軍資金だという。利左衛門から情報を得た三井家は、さっそく陳情を開始して200万両を、50万両まで減額させて、それを6回に分け、分割上納することに成功する。大店の三井家といえども200万両の支払いは辛い、命じられるままに支払ったらたちまち三井は倒産だ。

三井家は情報を先んじて入手することができ、どうにか難局を逃れる。利左衛門は情報の価値をよく知る男で、適時に必要とする相手に情報を伝えることで、情報の価値を一気に高めたのだった。のちに三井家は度重なる上納金賦課に悲鳴を上げ、利左衛門の進言を入れて、専任のセクションを設けることになり、そのため利左衛門を雇い入れることになった。三井家の番頭たちから「紀ノ利」と呼ばれていた利左衛門が、三野村利左衛門と名乗るようになるのは、このときからである。新しいセクションは「御用所」という。利左衛門の仕事は「御用所」を取り仕切るだけでなく、知故の小栗上野介を通じて幕府要路に働きかけ情報収集に当たる一方で、御用金減免につき幕府勘定方と交渉するのも利左衛門の大切な仕事のひとつであった。御用金200万両が50万両の減額されたのはいうまでもなく利左衛門の働きによるものだった。以後も幕府の御用金賦課を要求してくる。三野村が三井家に重宝されるようになるのは、こうした事情があったからだった。

時代を見通す洞察力

しかし、時代は急展開を遂げている。三井のような大店ともなれば、政治の動きと無関係ではいられない。政治と経済は、いまも昔も一体なのである。利左衛門は時代の動きというものをよく見ていた。大商人といえども、いや大商人だからこそ、政治との関係を誤れば、倒産という事態も考えられたからだ。まして維新という革命の時代だ。革命は万物を変える。慶應3年、幕府は大政奉還する。同年の12月に王政復古が発せられ、官軍は怒濤の勢いで東進を開始する。あちらこちらで旧幕軍との間で戦闘が演じられ、ついに江戸城は官軍の手に落ち、江戸は東京と改められた。京都から天皇を迎えて、首都と定められる。こうした動きを利左衛門は、各地に張りめぐらした独自のネットワークを通じてつぶさに内偵していた。情報を得るだけでは不十分だ。

利左衛門が卓抜した能力を示すのは、その解析力にあった。しかし、情報を得て、時代を洞察する力があっても、それを生かす経営者が不在では意味をなさない。幸い三井家には高福、高朗の親子がいた。利左衛門を重用したのは、この高福・高朗の親子である。当時の三井家は新勢力の薩摩や長州に通じる一方で、旧幕府に対しても、従来の関係を維持していた。掌を返すようなまねはしない——というのが、商人の心意気というわけだ。そうするのは信用の源泉でもあると心得られていたのだった。悪く言えば二股派だ。とはいえ、江戸は東京と改められ、徳川将軍家に代わり、天子さまの時代となったのである。新政府支持に旗幟を鮮明するのも、商人ならでわである。かくして大転換を図り、三井家は官軍の軍資金調達の任を担うようになる。以後、積極的に明治新政府を支援し、新政府確立後は確固たる政商三井の地位を築き上げるのであった。もちろん、幕末から維新にかけての、この大変革の時代のことゆえ、三井家内部にも異論はあった。その異論を抑えて、大転換を図る上で、三野村利左衛門が果たした役割は、決して小さなものではなかった。(つづく)