明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「三野村利左衛門」情報に通じた目利きの番頭(第1回)

岩崎弥太郎が終生ライバル視した男がいる。三井の大番頭三野村利左衛門だ。弥太郎は土佐の地侍の倅だが、三野村もまた「どこの馬の骨」かわからぬ、読み書きすら不満足な男だった。しかし、乱世には新しいタイプの人物が現れるものだ。岩崎弥太郎と同様に三野村利左衛門も乱世の男だった。こ の二人のライバルが瀬戸内海を舞台に死活をかけた海運競争を演じたことはすでに触れた。二人とも改革者だった。時代が必要とした改革者であった。時代は幕藩体制が崩れ、新しい時代に生き、日本の資本主義を生身で生きた男たちであった。古い秩序やシステムが崩壊したあと、新しい秩序とシステムを再構築するのが乱世に登場する新しいタイプの人間である。これまでなかったやり方が許されるのも乱世の特徴だ。乱世をチャンスと見て、積極果敢に打って出るか、時代の波に飲まれて、時代の彼方に消えていくのか、時代を担うその人物の才覚によって決まる。岩崎弥太郎もその一人であったし、ここで取り上げる三野村利左衛門もそうであった。

ナゾに満ちた人物

ここでの主人公、乱世の人は、どこかナゾに満ちている。文政4年(1821年)に信濃に生まれた利左衛門は、庄内藩士関口正右衛門の三男、松三郎の嫡子とされている。ただし、父松三郎は諸国を転々として、ときに木村性を名乗ったりして、放浪の旅を続けた人物である。利左衛門自身の出自に関しては、あまりはっきりしていない。三井財閥の大番頭、益田孝は自叙伝で「新時代に即応する三井の基礎を建てた殊勲の一人たるのみならず、幕府及び明治政府の枢機に参画して幾多の離れ業を演じた覆面の功労者である」と記すほどの人なのに、彼の幼少時分の事績については不明のことが多く、正伝すらない「覆面の人」なのである。要するに出生すらも正確な記録が残されていないのである。

評伝によれば、立身の夢を抱き、江戸に出るのは14歳のときという。初め深川の乾物問屋に奉公した。仕事ぶりはまじめであった。20歳のとき、まじめな働きぶりが認められ、勘定奉行小栗上野介の仲間となった。小栗邸でも、そりゃあたいそうな忠勤ぶりを示し、近所の人びとの評判をとった。その利左衛門に目をつけたのが、小栗の屋敷前で油屋を営んでいた紀ノ国屋の利八という人物。娘の婿殿にというほど惚れ込んだ。こうして利左衛門は利八の娘を娶り、紀ノ国屋の事業を引き継ぐことになる。しかし、奇妙なことにそれ以前のことについては、幼少のときの名前も、どのような暮らしをしていたか、記録は何も残されていない。利左衛門について語るとき、いつも紀ノ国屋の時代から始まるのはこのためである。しかし、私には好みの人物だ。才覚と努力のみを頼りに、世の中に生きる人間が好きなのだ。

このとき利左衛門は弱冠25歳。妻はかなといった。かなも才覚の人であった。利八の稼業は、行商に毛がはえたようなもので、たいした商いをしてたわけではなかった。婿入りとはいっても、期待されたのは、労働力としの婿殿だ。新しい当主の肩に一家の経済が重くのしかかる。大店の若旦那のように安閑としてはいられない。夫婦が協力し、助け合わなければとても一家を養うことはできない。かなが作るコンペイトウを背負い、行商して歩く日々が続いたのである。知恵だけでは足りず、体を酷使する日々だ。転機が訪れたのは、それまでに倹約貯蓄した手元の資金で小石川伝通院前の両替商伊勢谷の株を買い、両替屋を始めてからだ。当時、江戸で一番の両替商といえば三井家だ。その三井家に出入りするようになり、利左衛門の運命は開かれる。三井の店に頻繁に出入りしたのは、商いの勘所をつかむ必要からだったが、そのうち、利左衛門は三井家の番頭たちからかわいがられるようになる。生来の人間好きに加えて、機転のきく男で、行商で作ったネットワークから江戸市中の情報に通じている。大店三井家の番頭たちは、利左衛門のもたらす情報に何かと便利を得たのだった。こうして利左衛門は、三井家の大番頭に抜擢されるのであった。いまで言えば、重役への大出世だ。