明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「渋澤栄一」日本資本主義の父(第4回)

明治政府に出仕、上司に楯突く

今も昔も、役人の栄達は上司によって決まる。だから上司と衝突するなど、できない相談だ。トントン拍子で出世を重ねるかに見えた渋澤は、上司の得能通正と衝突する。得能は出納頭だった。今でいう主計局長の役どころだ。旧幕臣の渋澤は新政府ではあくまで外様だ。外様ゆえに渋澤は政治には関与せずもっぱら実務家として通した。その実務上のことで、得能が注文をつけてきたのである。このときの衝突というのは、資料を調べてみると、たわいのないことである。金銭の出し入れについて、上司の決裁を受けた上で、領収交付す—— という渋澤が策定した規定に得能が反発したのだった。

簡単に言えば伝票がなければカネは出さないという仕組みだ。ところが志士上がりの官僚には、それができなかった。何と言っても、彼らは血なまぐさい維新の政治闘争を戦い抜き、酔えば芸者の膝枕で、天下国家を論じる連中である。しかし、この制度は上司の決裁を仰ぎ、省内手続きを経て確立した規定だ 。もちろん大蔵省の事務章程を起草したのは渋澤であった。その渋澤に上司の得能は「このオレが何で自由にカネが使えないのか」と怒り狂った。国庫のカネを自分のものとでも思ったのか、公私混同である。渋澤は怒った。もともと筋違いの怒りだ。渋澤は理路整然と反論した。この話を民部大輔の井上馨が聞き、かんかんに怒り、得能の首を切ってしまった。

大蔵省を辞し実業家へ

とりあえずことはおさまった。しかし、薩長が跋扈する役所のことだ。こうなると、役所には居づらくなるものだ。自分は官僚として生きていくべきか、それともフランスで体得した「合本主義」を、この日本に根付かせるべき、実業家と生きるべきではないか。渋澤は迷った。この迷いが、渋澤の人生航路を決める。こうして彼は実業の世界で生きることを決断したのだった。明治6年に大蔵省を退官し、当時、設立されたばかりの第一銀行の総監役に就任する。以来、渋澤は「官に就かず職を転じず転湾松角することなく」(『渋澤栄一伝 』幸田露伴)日本経済の発展に挺身していくことになるのである。

明治の新興産業で、おそらく渋澤栄一の息のかからない事業はなかろう。銀行業、証券業、紡績、保険業、鉄道事業など、事例を上げていったらきりがないほどだ。ついには渋澤財閥を形成するにいたる。その意味で渋澤は明治期の新規事業のベンチャーであり、ベンチャーキャピタルでもあったのだ。しかし、日本資本主義の父と呼ばれる渋澤も、幾多の危機的状況に直面した。事業のもつれから暴漢に襲われたこともあった。それでも敢然として自らが信じる事業を追求し、事業を成功に導くのだった。

歴史上の人物から学ぶべきは成功譚ではない。学ぶべきは失敗から得た教訓だ。渋澤は幾度も危機の淵に立たされた。最初の試練は大蔵省を退官し、国立第一銀行に移ってから受けた。国立第一銀行は豪商である三井家と小野家とが それぞれ100万円を出資、残りを一般公募で発足した日本で初めての株式会社方式による銀行であった。渋澤は大蔵省在勤当時から関与した思い入れの強い銀行でもあった。何しろフランスで学んだ「合本主義」を初めて実践する銀行であったのだから、それも当然というべきだった。(つづく)