明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「渋澤栄一」日本資本主義の父(第1回)
この人物は激情の人であった。社会変革に挺身した往事の多くの若者がそうであったように、ここでの主人公渋澤栄一は、侍身分ではなかった。ときは安政3年(1856年)のことである。渋澤の生まれ故郷、武蔵国榛沢郡血洗島(現在の埼玉県深谷市)を支配していたのは安部摂津守という旗本だった。この小さな村に大事件が起こった。摂津守が村民に1500両の御用金を命じたのである。10両盗めば打ち首という時代だ。戸数60余軒に過ぎぬ村民にすれば、御用金と称する臨時の税金は苛酷な負担である。もちろん、さまざまの名目で御用金を農民に課したのは何も摂津守だけではない。幕藩体制は疲弊していて、財政事情の悪化に悩む大名や旗本が苛酷な年貢負担を領地の農民や町民に押しつけたものだから各地に農民一揆が多発したのは歴史書にある通りだ 。
カネを借りる者がなぜ威張る!
奇妙な光景だ。カネを借りる者が、カネを貸す者を呼びつける。紋付き袴の正装で、カネを貸す者が畏まり平伏する。天保11年(1840年)生まれの渋澤は、このとき17歳。渋澤家は近郷でも豪農として知られた。こういうとき、村民を代表し、代官所と交渉にあたるのは、庄屋や地元の名家である。このとき渋澤は、村民代表3名の年寄りとともに父市郎右衛門の名代として、代官所にまかり出た。平伏する百姓代表に代官は、こういったものだ。「このたび特別の思召しを以て、その方らに御用金1500両を申しつける」
「ははっ! ありがたき幸せ......」
と、一同畳に頭をこすりつけ、定番通り神妙に承った。
勝手をいいやがる、何が特別の思し召しだ。渋澤はひょいっと頭を上げ、「恐れ入ります。私目は父市郎右衛門の名代としてまかりこしました身。過大な御用金ゆえ一存にてはご返事申し上げ難く......」
渋澤は腹に据えかねたのだ。代官はかんかんに怒った。村の年寄りが、平謝りして、その場をおさめたものの、怒りがおさまらないのは渋澤の方だった。「人にカネを無心するのに、あの態度は何だ!」
逆転の発想というべきであろう。渋澤が「ならばワシもサムライになる」と決意したのは、このときだった。ややかたっ苦しい言い方をすれば、渋澤が「何とも理不尽な、この国の形を変えねばならぬ」と考えるようになったのは、この体験からであった。そしてその激情が江戸遊学へと突き動かす。
尊皇攘夷主義者
渋澤が大志を抱き江戸遊学を果たすのは、それから4年後のことだ。江戸滞在はわずか2カ月だった。この間、彼は多くのことを学んだ。まずは本所の海保漁村の塾で儒学を学び、神田の千葉道場では北辰一刀流を取得するため木刀を振るい汗を流した。学問も剣術もさほど上達はしなかったが、渋澤は江戸に出てイデオロギーという名の伝染病にかかった。おりから江戸は「尊皇攘夷」の熱病が蔓延していたからだ。空疎な観念論ではあるけれど、攘夷思想は多くの若者を突き動かした。渋澤もいっぱしの攘夷志士気取りだ。今も昔も若い人というのは、過激思想にかぶれやすいものなのだ。
渋澤は熱狂的な尊皇攘夷主義者として帰郷する。イデオロギーは人をつき動かす。激情家の性分が、輪をかけた。渋澤は家業を捨て、外国人をうち払う攘夷を実践するため、身命をなげうつ決意を固めていたのである。さっそく近郷同郷の雄志を募り、高崎城を攻め落とし、その勢いで横浜に駆け参じ、外国人居住地を焼き払う計画を立てた。計画はそれなりに緻密だったが、しかし、幸か不幸か、この計画は頓挫する。不穏な動きが幕府役人に漏れたからだ。渋澤は深夜郷里を抜け、仲間数人と京都に難を逃れる。(つづく)