明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「金子直吉」鼠と呼ばれた名番頭(第3回)
「三白」から製鉄所の経営へ
それは直吉には計算のうちに入っていた。コスト安でじわじわと両精糖会社を追いつめていく。追いつめられた両精糖会社は大里精糖工場を買収しようと画策する。砂糖戦争の勃発だ。しかし、彼らの狙いを知った上で買収話に乗った。せっかくの大里精糖工場を売却するのか、負け戦をしているわけでもなのに、なぜ——と世間は驚いた。しかし、直吉には読みがあった。過当競争を繰り返しているうちに、生産能力は全国消費量の3倍に達し、売値はダンピングを繰り返した結果、もはやコストの限界を超えていたからだ。東京と大阪を合併し大里に対抗した大日本精糖は自ら作った罠にハマったのである。そこで大日本精糖が画策したのが、精糖会社の官営化だった。要するに、弱り切った大日本精糖を政府に買い上げさせようというわけだ。動いたのは、同社の磯村音介専務。彼は政界に働きかけ、札びらを切った。それが収賄罪に問われ、磯村は司直の縄にかかり、酒匂社長が自殺するという悲劇を生んだ。またたくまに操業停止に追い込まれ、株価は墜落した。大日本精糖はただ同然に入手できる。そこで腰を上げたのが金子直吉だった。
鈴木商店が扱ったのはいわゆる「三白」と呼ばれた砂糖、樟脳、米の三品だった。大里精糖工場で経験を積んだ直吉が次に取り組むのが製鉄業である。 きっかけは「小林製鉄所」を買収したことだ。これが後の神戸製鋼所だ。直吉はドル箱になると読んだ。異分野への進出だ。素人のことである。これがなかなか上手くいかない。民間の製鐵会社で、当時鋳鉄を生産できるのは川崎製鉄だけだった。慣れない仕事によほど苦労したのであろうか、評伝には直吉の嘆き節が見られる。苦労の連続の末、ようやく鋳鉄を呉海軍工廠と取り引きできるようになるのは、買収から1年後のことである。ただし海軍工廠側から注文がついた。ドイツのクルップ社で研修を受けて帰国したばかりの海軍技官を、神戸に派遣することを条件としたのである。もちろん異存のあるはずもない。やがて民間企業や国鉄などからも注文が入るようになり、その後神戸製鋼所は 神戸脇之浜に本社工場を構え、総合製鉄所として発展を見るのは、ご承知の通りである。ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発したことも景気を持ち上げ、立ち上がったばかりの製鉄所は活況を呈した。
産学協力の先駆
戦時景気にわいた神戸を襲ったのは、猛烈なインフレーションだった。物価は目玉が飛び出るほどの高騰ぶりだ。庶民を襲ったのが米の暴騰だ。当時の新聞を拾い読みしてみると、大正7年の夏には白米一升50銭の高値を記録している。庶民が怒るのも当然だ。北陸富山で漁師のカミさんたちが「米よこせ!」と立ち上がった。これが全国に燃え広がった。いわゆる米騒動の勃発である。ちょうど、このとき直吉は東京でアメリカのモリス大使と鉄鋼資材の輸出交渉を行っていた。騒動は神戸にも波及していた。鈴木商店も暴徒に襲われ、焼き討ちされた。このとき金子直吉の首に10万円もの償金がかけられた。現在の貨幣価格で換算すれば十数億円の金額だ。鈴木商店は「米を買い占め、値をつり上げている」と非難されたのだ。やがて騒動は軍隊に鎮圧され、政局も大きく動き、寺内内閣は倒れ、平民宰相の原敬内閣が誕生する。しかし、ようやく事業が軌道に乗ったばかりの鈴木商店は灰塵にきし、掘建小屋から再スタートしなければならなかった。
なぜ鈴木商店が狙われたのか——については諸説ある。買い占めは事実だったのか。どうやら濡衣だったというのがいまでは定説になっている。それにしても、一事業家に過ぎぬ直吉に10万円もの賞金がついたことの方が驚きというべきである。さて、これより2年ほど前、金子直吉のもとを訪ねた二人の青年があった。一人は東レザー工業の久村清太でもう一人は米沢高専教師の秦逸三だった。秦が風呂敷から一握りの鈍く光るサンプルを引き出し、直吉の前に示した。「なんだね」と直吉が聞く。二人が苦労のすえに造り出した人造絹糸だった。直吉は二人の顔を交互に見た。またダメか——と、二人は思った。二人はあちらこちらに出向き、製品化を訴えてきたのだが、相手にされなかったのだ。製品化し、工場で生産するには、さらに実験と研究が必要だ。しかし、二人とも研究費を使い果たしていた。それで鈴木商店の金子直吉を訪ねたのだった。
商工並進主義の経営
研究を続けなさい。カネは私が責任を持つ——不安げに直吉の顔を見る二人に直吉が言った。鈴木商店にもう一つの産業部門が誕生する瞬間だった。米沢の織物工場を買収して発足するのがのちの帝国人絹だ。このとき鈴木商店は年間16億円を超える貿易量を誇るに至っている。神戸栄町の一商店に過ぎなかった鈴木商店はアメリカ、イギリス、フランスなど世界各地に出張所(支店)を持ち、競争相手の三井物産をはるかに凌駕する商圏を築き上げていたのであった。借金をしながら企業を買収したり、新しい事業を興し、鈴木商店は巨大化してく。それが可能だったのは台湾銀行との太いパイプがあったからだ。
直吉が手がけた事業を産業別に見ても、砂糖、製粉、ゴム、ビール、樟脳、伸鋼、造船、人絹、人造肥料と業容を広げていた。その中心に座したのが鈴木商店だ。金子直吉の経営手法は多角化にある。まだ産業が未発達の時代であったから、直吉が志向した多角化は国家目標とも重なり合うものだった。このような経営手法は、イギリスの経営専業等とも異なっていたし、またアメリカの経営複合化とも異なる経営戦略だった。そこに日本型経営の原型を見ることができる。つまり商社の情報機能をふるに活用し、本格的な産業育成を志向し、商工並進主義は直吉独自の経営戦略と呼ばれるものであった。(つづく)
朝起きてから夜寝るまで
それを支えたがの旺盛な事業意欲である。ともかく工場を作るのが好きだった。直吉の旺盛な事業意欲について、福沢諭吉の女婿・福沢桃介が以下のようなエピソードを紹介している。「ある日金子は一日の仕事を終えて神戸の店から須磨の自宅に帰ろうと電車に乗った。車中で一人の婦人がお辞儀をしたから金子も挨拶を返した。電車を降りて、坂道を上ると、この婦人もついて来た。そのとき別に何も思っていなかったが、家に近づくて初めて、それが自分の細君であることに気が付いた」。出来すぎた話ではある。しかし、直吉の一面をよく現したエピソードには違いない。と言うのも、直吉は朝起きてから夜寝るまで、仕事のほか何一つ考えない男だったからである。事業意欲に燃える直吉は借金に借金を重ね、次々と新しい事業を興した。それがやがて暗転する。