明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「金子直吉」鼠と呼ばれた名番頭(第1回)
株価が急落を続け、経済はデフレの様相を示している。デフレとは経済の萎縮を意味する用語だ。生産は過剰なのにモノは売れず、物価は下がるが、失業者が巷に溢れ、社会不安が高まり、太平洋戦争へと一気につき進んでいったのが、昭和4年に起こった昭和恐慌だった。歴史は繰り返すというが、平成の経済危機は昭和恐慌とよく似ている。昭和恐慌は金融制度改革、すなわち諸外国に倣って「金輸出解禁」を踏み切ったことが直接の契機となった。現代の経済危機は、橋本内閣の下でグローバル化という名のもとに行われた金融制度改革がきっかけだ。さらに事態を悪くしたのは、金融危機が顕在化しているというのに、財政引き締めを、つまり行財政改革をやろうとしたことだ。財政が破綻状態にあったことも、だから財政再建を急がなければならないことも、大型倒産が相次いだことも、政局が混迷を極めていたこともよく似ている。昭和恐慌では台湾銀行や渡辺銀行など金融機関だけでなく、中小企業の倒産が相次いだ。なかでも人びとを驚かせたのが鈴木商店の倒産だった。ここに登場する人物は、この時代に生きた鈴木商店の大番頭・金子直吉だ。
たぐいまれなオルグナイザー
鈴木商店——。もはや経済史の教科書にしか出てこない名前である。現代にその痕跡を探すとすれば、神戸製鋼所や日商岩井などに認められる。この鈴木商店は明治7年から昭和2年の約半世紀の間、まだ「総合商社」という呼称がなかった時代に、世界をまたにかけて大活躍したビッグ・ビジネスである。当主は鈴木よねという女主人で、その番頭を務めたのが、金子直吉だった。より正確に言うなら、鈴木商店とは金子直吉が育て、世界のビッグ・ビジネスとして活躍した企業だ。鈴木商店は昭和2年の金融恐慌で、市場から退場した。しかし、金子が育て残した総合商社、製鉄業、化学、繊維など各種事業は姿を変えながらも今に生きている。つまり金子直吉は工業化のもっとも優れたオルグナイザーであると同時に、ベンチャーキャピタルでもあった。もう一つ金子直吉の事績を上げておくならば、彼が残した人材のことである。紙数に限りがあるので詳述は避けるが、代表的な人物を上げておくなら、戦後の産業復興公団総裁を務めた長崎英造、帝人の大屋晋三、神戸製鋼所の田宮嘉右衛門、日商の高畑誠一などがいる。
さて、金子直吉のことである。読者の中には城山三郎の小説『鼠』を読み、ご存じの方も多いかもしれない。けれども、これほど評価の別れる人物も珍しいことだ。神戸の小さな個人商店林兼を、世界的な大商社に発展させた、その経営手腕に着目し、天才的で非凡な事業家と評価される一方で、組織を無視したワンマン経営を敷き、結局は鈴木商店を破産させた張本人と断罪する向きもある。他方では数多くの企業を創業し、育成したという旺盛な事業家としての評価だ。さらにもう一方では比類なき主家に対する忠誠心や、私生活における無欲恬淡な態度を評価する向きもある。つまり金子直吉は見る人の立場で評価が大きく別れる人物なのだ。ちなみに「白鼠」とは主家に忠実な番頭の異名である。しかし、金子は名誉とは無縁の男だった。後述する日米船鉄交換交渉で果たした金子の働きに感激した久原房之助が賞勲局に出向き勲二等下賜の手続きを取ったことがある。その話を聞き金子は賞勲局に出頭し手続きを取り下げたという逸話が残されている。城山三郎は案外このくだりに注目して『鼠』を構想したのかも知れない。私が注目するのは鈴木商店を潰した男の、その後の生きざまである。企業が危機に立たされたとき、あるいは企業が倒壊したとき、経営者はいかにふるまうか、それは現代の経営者につながるからだ。
政治家を志すも事業家の道に
背は低く貧相な体つきだ。しかも酷い近眼で、身なりもかまわずよれよれの背広姿。金子直吉の晩年である。慶應2年に高知の吾川郡に生まれた実家は貧しく、幼少のころから奉公に出た直吉が目指したのは政治家だったという。土佐高知は幕末、明治、大正にかけ多くの政治家を排出している。そんな影響があったのかもしれない。しかし、直吉が名を残すのは実業家としてある。21歳のとき鈴木商店に入ったのが人生の転機となった。政治家になる夢は捨てた 。高知から出てきた直吉は神戸港の埠頭に立ち、一つの決心をしていた。それまで務めた質屋の主人が亡くなり、主家一家は貧に喘でいた。まず働きカネを稼がなければならぬ......。直吉は道を急いだ。神戸の栄町4丁目に、その店はあった。番頭の柳田富士松とは顔見知りである。質屋の主人が砂糖の商売を始めたとき、買い付けのため訪ねてきたのが柳田だったからだ。鈴木商店は鈴木岩太郎が大阪の辰巳屋から分家して興した店で、もっぱら砂糖を商っていた。
岩太郎は太っ腹の男で、入店間もない直吉に多くを任した。直吉が最初に始めたのは土佐の鰹節、茶、肥料の取扱いだった。これが見事にあたった。先輩番頭の柳田は舌を巻き、主人の岩太郎は喜んだ。神戸の小さな砂糖の専門店はにわかに活気づいた。直吉は商機というものを、よく知っていた。直吉は樟脳や寒天なども取扱い、海外への輸出にまで乗り出すことになる。信用力もつき、小さな砂糖問屋は、いよいよこれからというときだ。主人の岩太郎が急逝するのだった。さあ、どうする——。鈴木家の一族郎党が集まり、鳩首協議を始める。店をたたんだらどうだ——という意見も出た。残された未亡人・よねが店を切り盛りするには、無理があるという判断だ。しかし、よねは決然と言った。「直吉がいてくれはる」「それに富士松もようやってくれます」——と。よねの言葉に親戚連中は口をつぐんだ。彼女は店の経営にあれこれ口出しするような女ではないが、人を見る確かな眼力を備えていた。直吉が店に入ってから事業は一転した。夫の岩太郎ではとてもここまで店を伸ばすことはできなかった——ことを、彼女はよく知っていた。(つづく)