明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「岩波茂雄」出版文化の大衆化の功労者(第2回)
一高で得た友人の顔ぶれ
当時の一高は全寮制だった。場所は本郷の東大農学部にあった。一高が駒場に移転するのは後のことだ。同級に後に作家となる阿部次郎がいた。一高での岩波は、いわゆる運動部に属し、熱中したのはボートだった。しかし、ボートにはすぐに飽き、岩波は人生というものを考えるようになる。末は博士か大臣か、というわけで一高東大は立身のためだったはずだ。しかし、その一高に入り立身の夢を捨てる。皮肉なものだ。いかに生きるべきかなどと、人生上のことどもを深刻に考えるのは、当時の一高の風潮でもあった。一高校生藤村が「 厳頭之感」なる遺書を残し、華厳の滝に投身した事件に、岩波は大きな衝撃を受けた。勉学の目的を失い、失恋もした。自分自身に藤村の言葉を重ねてみたとき、岩波は生きることにむなしさを感じないわけにはいかなかった。多感な岩波は野尻湖の小島に独り40日間も籠もり人生というものを考える。
流行の病といえば流行の病だが、形而上の悩みほど厄介なものはない。いまでいう不登校だ。人生を考え、死を見つめる孤独の生活。そんな岩波を説諭し、現世に引き戻したのが母うただった。流行病から生還した岩波は一高の寮を出る。東京に戻っても、考える日々は続く。おかげで学業が疎かになり、落第する。阿部能成などと同級となる。安部能成は後に岩波書店の経営に参画し、岩波では「哲学叢書」の編集にあたり、後に文相や学習院院長を務めた男だ。阿部次郎、安部能成、和辻哲郎、小宮豊隆など、一高では多くの友人を得た。 その多くは、夏目漱石の門下生を名乗り、漱石の寓居「漱石山房」に出入りする文学・哲学青年たちだ。ちなみに、小宮豊隆は漱石研究の第一人者として知られる。しかし、岩波の学業は相変わらずで、二年続けて落第したため、一高を除籍される。
熱心な教育者が古本屋に
友人の顔ぶれは多様である。後に岩波書店を興し、岩波文庫や哲学叢書を出版するにあたり、これらの人脈が財産となった。しかし、岩波浮遊の時代はまだ続く。明治38年9月、岩波は東大哲学科に入る。下宿先の娘明石ヨシと学生結婚するのは翌年のことだ。学生身分だ。カネを稼げるわけじゃない。生活の面倒は内職しながらヨシがみた。明治41年、岩波がこよなく愛した母うたが逝く。卒業まで待ってくれてもいいものを——と、親孝行ができなかったこを悔やみ、嘆き悲しんだ。父親を早く亡くし、実世界に入る前に母親も逝った 。その後の結婚生活もさめたもので、家庭生活には恵まれなかった。明治41年7月、東大を卒業する。長女百合が誕生するのは翌年のことだ。
哲学出身では就職口が狭くなるのは、今も明治も事情は同じだ。ぶらぶらしているわけにもいかず、編集などの仕事を手伝う。まあ、フリーターの草分けのような仕事だ。明治43年、推されて神田高等女学校の教頭に就任する。自伝には月給35円とある。岩波は熱心かつ模範的な教育者だった。彼は労を惜しまなかった。岩波の担当は、英語、国語、西洋史、漢文などであったが、他の教師が休めば、進んで代講もしたし、始業前に特別に講義もした。女子教育の先駆者たらんとする夢もあった。生徒たちを講演会や展覧会につれ歩いたのも、生徒たちの視野を広げんとするためだった。しかし、熱心な教育者は往々にして学校当局と対立するものだ。4年あまりで退職するのは、そうした事情からだ。しかし、岩波はナイーブな男でもあった。果たして自分は他人を教育するようなことができるのか、と深刻に悩んだ。教育の難しさを悟ったのだ。
学校を辞めたあと、岩波は富士の裾野で晴耕雨読の生活を夢見た。しかし、 隠遁生活に入るには若すぎた。やはり実社会で生きることを考えなければならない。何か商売でもはじめようかと考えた。しかし、学士様がおいそれと商売ができる時代ではない。商人というのが卑下された時代だ。やり方によっては自分を卑下しなくもできる商売があるはずである、岩波はそう考えた。そこで思いついたのが古本屋である。遊民の生活もできる。彼は女学校の送別会の帰りに、古本屋に立ち寄り書物を買い入れ、古本屋を開いた。店名は妻ヨシの発案で「岩波書店」と決まる。いよいよ岩波書店のスタートだ。とはいえ、岩波の商売は大志を抱いて本屋を始めたわけじゃない。まあ、ささやかに市井で生きるに必要な糧を稼げればいい、そんな程度の商売を考えてのスタートだった 。