明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「鈴木三郎助」味の素の創業者(第5回)
先例ならございます!
苦い経験が脳裡を走る。あの房総戦争だ。どうすべきか——を、三郎助は考えた。まず特許期間を延長できないか、さすれば排他的独占は維持できる。しかし、特許は期間があるから特許なのである。排他的独占権を行使できる期間内に、特許保持者はもうけられるだけもうけてもよろしい、というのが特許法の趣旨だ。だから期間満了になれば、自由公開が、もう一つの原則だ。期間延長など認められるはずもないと誰もが言った。最初、三郎助もそう考えた。調べてみると、事例はあった。真珠王・御木本幸吉が特許延長を求めて、それが認められたというケースだ。役人は先例に弱い。そこを突く戦法だ。あとはどういう理屈を立てるかだ。そこは口説きの名人である。
書類を揃えて、三郎助は特許延長を申請する。期間があるから特許だと、役人は予想通りの反応を示した。それは計算の内に入っていた。先例ならば、ありますよ——と三郎助は迫る。しかし、それは特殊な事情があってのとこだ——と役人。特殊な事情とはどういうことか、とたたみかける三郎助。言葉に詰まる役人。すかさず三郎助は、私どもにも特殊な事情があります——と迫る。そして上手な語り口で開陳したのは、特許による利益の有無だった。過大な設備投資と広告宣伝に投じた資金は巨額で、とても期間内に回収するのは困難だという主張だ。役人と特許論争を繰り広げる一方で、三郎助は鳩山一郎、鈴木喜三郎、森恪など政治家に助力を求めたりもした。
特許更新の奇策
いまでは、こんな乱暴な理屈は通るまい。しかし、三郎助は奇妙な理屈で、特許延長を認めさせた。ただし期間延長は以後6年とされた。問題はさらにあった。池田博士が以後の提携に同意するかどうかだ。幾度か話し合いを持った。池田博士は煮え切らない態度を取っている。人を使って調べてみると、特許切れを三井物産が狙っていた。池田博士に急接近しているのは明らかだった。考えてみれば、池田博士も我慢をしてきたのだ。というのも「味の素」は収益を上げているとは言い難い状態にあり、そのため池田博士には十分な報酬を払っていなかった。三郎助は素直に反省した。
幾度かの会談ののち、三郎助は池田博士の自宅を訪問した。手にしたのは100万円の現金と契約書だった。往事の100万円と言えば大金だ。契約書には博士の研究を助成する目的で毎年10万円を、寄付すると書いてある。産学連携の申し入れだ。契約更新の書類にサインするのを渋っていた池田博士は心を動かした。三郎助は現金を机の下に押しやり、そしてグルタミン酸を企業化するため、この15年の間の苦労話をポツポツとするのであった。口説き上手は、ときに涙し、ときに激昂しながら苦労物語を続ける。最初の出会いから15年の歳月が経つ。三郎助の頭には白いものが目立つようになっている。その三郎助の語り口には心打つものがあった。最後に、池田博士は「参った」と破顔した。
ダシの代名詞が「味の素」
関東大震災で首都東京が甚大な被害を受けるのは翌年のことだ。味の素の川崎工場は全壊し、京橋の「鈴木商店」も延焼倒壊した。続く昭和大恐慌が襲う。二重の打撃で多くの企業は倒産を余儀なくされた。しかし、三郎助が「味の素」を守ったおかげで、むしろ味の素は本格的に家庭に浸透していくことになる。グルタミン酸を製造する会社も現れ、もちろん、競争会社も登場した。しかし、家庭の主婦には「味の素」であり、台所のダシと言えば「味の素」が代名詞となった。他のグルタミン酸はまったく売れなかった。一つの商品が、これほど家庭に浸透した事例は他にあるまい。それほど、味の素は市場に定着したということだ。ベンチャーとしてスタートした「味の素」は、こうして世界的ブランドとして名声を確保した。それは戦後におても事情は変わらずいまに生きている。
65年の人生のなかで三郎助は、三度大きな危機に直面した。一度は米相場に埋没したときだ。二度目は房総戦争だ。三度目は特許期限切れのときだ。その都度、三郎助は相手を口説き落とし、損をして得をした。しかし重大な場面では勝負に打って出た。房総の新工場を敵側に譲り、そして難局を乗り切った。どんな商売でも、相手を説得できないことには契約は成立しない。三郎助は負けたふりをして、得をするタイプの経営者だ。一人勝ちを排したのだ。三郎助は人間関係を大事にし、房総戦争では森矗昶という終生の友人を得た。この人物から学ぶべきことは多い。多面な顔を持つ三郎助だが、私が好きなのは口説き上手な三郎助だ。ビジネスはつまるところ人と人の関係だ。口説き上手の行き着く先は人間関係を大事することだ。人間関係こそが資産——と、彼は考えたのだ。それは現代のサラリーマンにも十分に通じるビジネスの要諦でもある。(完)