明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「鈴木三郎助」味の素の創業者(第1回)
柔らかい表情だ。その語り口に次第に引き込まれていく。鈴木三郎助はいまで言うプレゼンテーションの名人だった。彼の巧みな語り口には誰もが参る。プレゼンテーションの要諦は、つまりところ説得である。優れた技術でも優れた商品でも、まずは相手を説得できなければ使ってもらうことはできない。まずは説得だ。口説き上手という意味では、ここでの主人公・鈴木三郎助は天性の口説き上手だった。相手の性格を素早く見抜き、ときに拝み倒し、ときに引く。泣かせたり、笑わせたり、自在である。鈴木三郎助は自分の魅力というものを、よくよく心得ている男だった。誤解されては困るのだが、知に優るわけでも、舌先三寸で相手を煙にまくわけではない。要するに、鈴木三郎助の上手さとは、相手に対する洞察力に裏打ちされたもので、そこのところが他の人とは違うのである。
賢母なか子の商才
さて鈴木三郎助のことである。若い読者には馴染みが薄いかも知れない。大正・昭和にかけて生きた実業家で、味の素の創業者と言えばご理解いただけるだろう。今は一部上場の大会社だが、味の素は昔は小さなベンチャー企業だった。しかし、三郎助はベンチャーの道をまっしぐらに歩んだわけではない。母親なか子に言わせれば、若い時分の三郎助は相場に明け暮れるデキの悪い息子だった。悪友の誘いで、三郎助が米相場に手を出したのは21歳の時だ。このとき現在価値で数億円をもうけたというから、大変な「博才」と言っていいだろう。これがいけなかった。相場の味を一度覚えると、忘れられなくなる。夢追い生活が始まる。しかし、所詮は博奕は博奕だ。やればやるほど負け越し、アッと言う間に大金を使い果たし、借金地獄に転落する。所帯を持たせれば落ち着くかと考え、知人の紹介で妻をめとらせた。それでも改まることはなかった。生家はちょっとした素封家だ。田地田畑を売り、それでも足りなく、ついには家財道具を売り払う始末である。
三郎助は幼くして父親を失っている。三郎助を厳しく育てたのが母なか子だ。まあ、残った家を貸部屋にでもして、とりあえず生活の糧を稼ぐことだ。なか子は商才に長けた女性で、行動力ももあった。頼りとすべき息子は米相場に失敗し、いまは借金取りから逃れ歩く生活だ。息子はあてにはできぬ。こうしていればのたれ死にだ。何かいい商売はないものか——と彼女は考えていた。ともかく家運を挽回しなければならない。幸運というのは偶然の機会からやってくるものだ。ある夏、二階の一間を一人の技師に貸すことになった。男は村田春齢と名乗った。聞いてみると大日本製薬の技師という。その技師になか子は何かいい商売がないものか、と聞く。村田は「ありますよ」とあっさり応える。
道楽息子の目に涙
村田は毎朝葉山の海辺を散歩するのを日課としていた。波際には大量のかじめが打ち上げられている。かじめは搗布と書き、褐藻類コンブ科の海藻で、沃度や肥料として使われていた。そのかじめを原料にケルプ(沃度灰)を作ってみたらどうか、と村田技師は薦めたのである。よもや本気にはすまいと思ったが、なか子がしつこく聞くものだから、一晩かけて製造方法や工程などを説明した。なか子はいったん事を決めると行動は早い。すぐ製造に取りかかった。苦心のあげく一握りほどのケルプを作り、サンプルを村田技師のもとに送った。ビックリしたのは村田技師だ。まさか——と思いつつも、テストをしてみると、立派なケルプだ。やがてなか子は三郎助の妻テルに手伝わせ、本格的な生産をはじめる。これが売れに売れ、大当たりした。
さて、道楽息子三郎助は、まだ一攫千金の夢を追い、日本橋兜町あたりをうろついているとの話だ。引きづり戻すため、なか子は日本橋に出かけた。母親の姿を見るや、三郎助は逃げた。なか子は悄然と葉山に戻り、ケルプ作りを三郎助の女房テルと二人でやっていかなければならないことを、改めて決心するのだった。相場というのは博奕と同じで、一度味を覚えるとなかなか足を洗うことができないものだ。額に汗して働くことなど、ばかばかしく思えるからだ。ある日、三郎助はぶらりと葉山の実家にもどった。しかし、妻も母も何も言わず、懸命にケルプ作りに精を出していた。家にもどったのは、いうまでもなく金策のためだ。しかし、カネ目のモノなどあろうはずもない。汗水たらし、懸命に働く母と妻。最初は「たかが知れている」とバカにしていた三郎助の目に涙が溢れた。