明治・大正・昭和の ベンチャーたち
「松永安左エ門」官に抗し9電力体制を築いた男(第1回)
眼光炯々としていて細身の長身。誰もが畏敬の念を抱き、人びとからは「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門は、九州は壱岐島石田村院通寺浦の出身だ。松永家は祖父の時代に財をなし、以来海運業を営む、壱岐では豪商として知られ、安左エ門は明治8年6月、松永家の総領息子として生を受けた。幼名を亀之助という。幼少の安左エ門は、生来のきかん気で、欲しいものは何でも手に入れるという性格だった。高等小学校に上がるころ「夜這い」をかけるほど、異性に対し猛烈な関心を示す恐ろしく早熟な少年であった。事業と女遊びは安左エ門の勲章のようなものだ。19歳で帰郷した安左エ門がヤクザの女に手を出し刃傷事件に巻き込まれたエピソードを残している。明治人のキーワードは「立身」である。立志伝や偉人伝に読みふけり、自らも大志を抱き、立身を夢見たのである。
福沢の『学問のすゝめ』に傾倒
安左エ門には「電力の鬼」のほか、いくつもの定冠詞があった。関西財界の重鎮小林一三は「壱岐の海賊」と呼び、三井の大番頭池田成彬は「財界の共産党」とあだ名したものだ。激しい気性を揶揄してのことだ。高等小学校を卒業すると、明治22年に上京し慶應義塾に入る。慶応をとくに希望したのは『学問のすゝめ』を読み、福沢諭吉に傾倒したからだと松永は後に語っている。すなわち、当時の新進の思想に触れ、福沢の間近で学ぶことを望み、慶應義塾に入ったのである。在学中に父が急逝して、慶応義塾を中退し、家業を継ぎ安左エ門を名乗る。家業を継いでからも女遊びは盛んで、希代の遊び人安左エ門はヤクザの女に手を出し、刃傷事件を起こしたのはこのころだ。家業には興味がなかったようで早大在学中の弟安太郎に家業を任せ慶応に復学するのは21歳のときだった。
この慶応で安左エ門は多くの友人を作った。福沢の養子、愛娘の婿であった福沢桃助と出会うのも、慶応のキャンパスでのことだ。このころ、福沢の日課は学僕を連れての朝の散歩から始まる。三田のキャンパスから芝へ、ときには足を伸ばし、日比谷公園までいくこともあった。その姿を見た近所の人たちは「散歩党」と呼んだものだ。この仲間に桃助もいたのである。当時、桃助は北海道汽船の東京事務所長をしていた。この散歩の途中で福沢はいろいろな話をした。資本主義の本義を学んだのも、この散歩のときだ。安左エ門は資本主義を実地で学ぶため株をやっていた。今日はいくら儲かった?と福沢が訊く。福沢は株に手を出しているわけではないので、福澤の場合はシミュレーションだ。安左エ門は学費の一部を株でまかなったと豪語している。しかし、株の天才・桃助にはかなわなかったようだ。安左エ門は慶応で『学問のすゝめ』ならぬ、株の実地を学んだわけだ。
ブローカー時代の安左エ門
卒業間際、安左エ門は福沢に相談した。学校もなにやらつまらぬ、学校を辞めて実業の世界に入りたいのだが——と。福沢の答えはあっさりしたもので、卒業などというのは意味のあるものでない、そう考えるのなら、それもよかろう。そして福沢が紹介したのは三越呉服店(後の三越)の朝吹英二専務だった。しかし、それを謝絶し、桃助の斡旋で日本銀行に入る。総裁秘書役という役職だ。自前で作ったモーニングを着用し、出仕してみたものの、秘書役の仕事は回ってこない。腐っているところに、声をかけたのが、またも桃助だった。銀行なんて君の柄じゃない、俺といっしょに事業をやろうじゃないかと桃助は言うのである。そのころ桃助は、株でもうけた資金で丸三商会を設立し、事業を始めようとしているときだった。そのパートナーに——というのが桃助の誘いだ。
日銀務めに飽き飽きしていた安左エ門には渡りに船だった。こうして安左エ門は神戸支店に赴任する。桃助は意欲的な男で丸三商会は北海道の木材を北米向けに輸出する仕事を手がけたほか、もうかりそうなものなら何でも扱った。しかし、そこは素人商売だ。新興商社はあえなく倒産する。それでも桃助は意気盛んで、岳父福沢から借金して、神戸に「ゼネラルブローカー福松商会」を設立。今度ばかりは会社を潰すわけにはいかぬ。神戸を拠点におくこの会社で安左エ門は馬車馬のごとく働く。神戸時代に多くの友人を得ている。生涯の親友ともライバルともいう小林一三との邂逅も、この時代のことであった。危ない仕事もやった。大量の石炭を買い占め、巨額の利益を上げたこともある。まあ、事業というよりも、この時代の安左エ門は、その社名が示すようにブローカーだったのである。(つづく)