明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「野口遵」特許をビジネスモデルにした最初の日本人(第1回)

ご承知のように現在の旭化成延岡工場の前身である日本窒素肥料株式会社延岡工場が操業を開始したのは、大正12年10月のことと、旭化成の社史に書かれている。延岡市の豊富な水と電力に目をつけ、カザレー式アンモニア合成法の最新技術を導入し、新工場を建設したのが野口遵である。今回の 主人公は旭化成の創業者にして、日本の化学工業の祖と呼ばれる野口遵である。評伝を読むと、野口は明治6年金沢の貧乏士族の子として生を受けた。地元中学を卒業すると、一高・東大へと進み、東大では電気工学を専攻し、明治29年に卒業すると、同年独シーメンス社に入った。日本窒素肥料を創業するのは、それから十年後の明治39年のことである。外国企業に身を置いたことが、影響したのであろうか。彼が着目するのは、特許によるビジネスモデルの確立だった。

人脈をたどれば二人のドイツ人

明治39年春、日露戦争直後のことである。野口遵の姿が九州延岡にあった。彼が構想していたのは、木曽電気を資本金20万円で設立し、この電力を利用し、カーバイトを製造することであった。大学を卒業しまだ10年後である。野口は早くも実業家としての立身を企てていたのである。野口の心を動かしたのは、当時野口が勤めていたシーメンスがカーバイトを原料に、これを空中窒素を吸収し窒素肥料を作ることに成功したというニュースだった。ここでひとつの決断を下す。シーメンス社の特許を買い取ることを。

決断すると野口はパリに出向いた。原料がただの空気。聞けば、誰でも飛びつく話であり、パリについてみると、三井物産の益田孝、後の総理大臣原敬などがいた。益田は三井財閥の代表、原敬は古河財閥を代理する人間としてパリで、シーメンスとの交渉に臨もうとしていたのだ。いずれも世界的な大財閥である。普通に考えるなら、勝ち目のないビジネスである。しかし、野口には武器があった。シーメンスに勤めていたときの人脈だ。

この特許を持っているのはフランク・カローという科学者だ。窒素肥料の工業化にはシーメンスが資金協力をしているのを知っていた。日本出張所のケイラー所長やヘルマン技師長とは昵懇の仲だった。とくにヘルマンからは最新のヨーロッパ化学工業の知識を教わったことがあり、他方、ケイラー所長は野口青年の才覚に惚れ込み、よくかわいがってくれたものだ。二人とも、いまは祖国ドイツに帰任している。

窒素肥料製造成功の代償

野口は旅の宿で二人を思いだし、膝をたたいた。さっそく野口はドイツ本社に二人を訪ねた。ケイラーもヘルマンの野口の来訪を喜び、歓待したものだった。野口はディナーの席で用向きを切り出した。ほう、と二人のドイツ人は互いの顔をみた。承知したと応えたのはケラーの方だった。ドイツ人らしく律儀にも特許の所有関係を調べ、所有者であるクランク・カローとの交渉を斡旋してくれた。実施権の買い取り価格は40万円。交渉はアッという間に決着したと野口は後に自伝に書いている。

三井・古河の両財閥を押さえての快挙であった。藤山常一と仙台でカーバイト製造事業に着手したのが明治39年だ。鹿児島県で曽木電気会社、日本カーバイト商会を設立するのは同41年。帰国するとすぐに、両社を合併し、日本窒素肥料会社を発足させた。資本金100万円の新会社の社長には、資本協力をしてくれた同郷の先輩・中橋徳五郎が就任し、自らは技術担当の専務におさまった。熊本水俣にフランク・カロー法による窒素工場を建設するのは、翌年のことだ。構想からわずか2年の実業化だ。

しかし、どうもうまくいかない。工場で製造を指導していたのは、大学以来の友人である藤山常一である。野口は気短な性分の男だ。藤山を押しのけ、現場に出た。悪戦苦闘の末にどうにか、最初の製品ができあがる。だが、そのことで藤山は日本窒素を去り、仙台でカーバイト工場を作り、苦労をともにした友人を失った。このとき、野口の態度に周囲から非難の声が上がった。野口にも友人が去ったことは痛手だった。しかし、創業間もない企業のことだ。製品化を急がなければならなかったのだ。これは製品化の代償ともいえなくはなかった。しかし、代償にしては大きすぎたと野口は頭を抱えた。